イジワル上司に恋をして


「鈴原さん」


ブライダルは相変わらず忙しそうで、今日はちょくちょくドリンクのヘルプをしてたりしていると、空のトレーを持ったわたしにスタッフの一人に呼び止められる。


「ショップって、どう? 落ち着いてる?」
「え? あ、はい。ブライダルに申し訳ないくらいです……」


ドギマギと答えると、ぱぁっと笑顔に花を咲かせたような顔で矢継ぎ早に言われた。


「ほんと! よかった! ちょっとお願いしたいことがあって! ほら、今ちょうど人出が足りない時間で……あっちでも一組お客さん待ってるし」


ズイッと距離を詰めるように懇願され、圧倒されたわたしは壁に追い詰められる。

あれ。これ、今よく聞く〝壁ドン〟みたい。

なんて、背中に壁の感触を感じてバカなことを思う。
相手は少し背の高い〝女の人〟なんだから、我ながら本当にイタイ妄想人間だと思った。

そのとき、ふと、記憶に蘇る。
アイツ……黒川に初めてキスされたとき。あのときも、ふたりきりで残業していたあの事務所の壁に肩を押しつけられて……。

まさに〝正しい壁ドン〟を思い出して体じゅうが熱くなる。


「……さん! 鈴原さーんっ」
「うぇあ! っは、はい!!」
「大丈夫?」
「だっ、大丈夫です! それで、なにを……」


力いっぱい「大丈夫です」だなんて口にはしたけど、本当のところは全然、まだ大丈夫なんかじゃない。
あんな、もうとっくに終わった過去のことを思い出したくらいで簡単に跳ね上がってんじゃないわよ、わたしの心臓!

頼まれごとをしたあとも、ひとりでぶつぶつと言いながら歩いていたわたしは、不審者だったと思う。

スタッフの人に頼まれたことは、備品庫からちょっとしたものの補充。それを終わらせて事務所に戻ると、また別の用事を言い渡される。

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