イジワル上司に恋をして

はん! と嘲笑うようにして、わたしを壁へと追い込みながら言う。
綺麗な顔立ちで上背がある黒川に迫られ、背中には冷たい壁の感触を感じる。普通なら、この状況、足が竦んでもおかしくない。でも、わたしはなんとか震えるのを隠しながら、気丈に振る舞って返した。


「バッ……バカにしないで! わたしは香耶さんが、今回なにかワケありな感じのお客様の婚礼だ、って聞こえたから手伝いたくてッ」
「へー。でも、よかったな。“会いたい”とかって言われたんだろ? 残業もデートも叶って」
「あんたにカンケーなっ……」


ドン! と壁に肩を押しつけられる。
目の前に影が出来たと思ったら、次のことを考える暇もなく“そう”なってた。

鼻腔をかすめるタバコの残り香。肩に置かれた力強い手と、後頭部にも感じる大きな手の感触。

そして、言葉を発せない状態にある自分の唇に全意識が集中する。
それは確実に、『夢』でも『妄想』でもなんでもなくて、『現実』だ。


抑えつけられるような、強引な唇から解放されて、初めに口を開いたのはわたしじゃなくて、コイツ――。


「んな顔すんなよ。オマエの妄想に付き合っただけ」


たった数センチ離れた位置で開いた、その男の唇からは「くっ」と漏らした笑い声とそんな言葉。
上から目線の余裕な顔が、わたしの目に焼きつく。


「アタリ、だろ?」


――ふっ……ざけんなっ!!


パシン、と静かな事務所に響いた音――わたしが、黒川の左頬を打った音、だ。
< 82 / 372 >

この作品をシェア

pagetop