学芸員の憂鬱

(ここです)と案内され、尽が見上げたのは店舗を兼ねたビルだった。

「あっ…侘助さん!連絡とか要らないんですか?」

「…ここに限っては必要ありません」
振り返る事もなく侘助は自動ドアを潜る。

「いらっしゃいませ…」
糊の匂いを感じながら後に続く。

「綴(つづり)さん!」
受付に立つ男性がブースから出て来た。

「綴さん?侘助さんの名前ですか?」
男性の声に気付き、奥からも職人風の数人が顔を出す。

「知りませんでしたか?糸偏に又が四つで綴」
侘助が口元で笑う。

「…で…ここは?」

「母の実家です…」
続けて何か言おうとする侘助の声は遮られた。
「おかあさん、綴さんがみえましたよ!」
かなり嬉しそうな男性の声に、一番奥から出て来たのは、侘助と同じ瞳と、薄い唇を持つ老女だった。

「居たんですね…」
小さく侘助が呟く。

「そちらは?」

「尽さんです…おばあちゃん」

「はじめまして…戌亥です…」

「上、見せて貰いますよ…尽さん…こちらへ」
侘助は、にこにこと尽を見つめる祖母の横を通り過ぎる。

「あっ…はい…失礼します…」
一礼して尽は侘助に続く。

「お茶とお菓子…特別上等なん…あったかね…」
祖母は店内に居た従業員に言う。

「分かりました…準備します」

「しかし…綴が(友達)を連れて来はる日が来るとはねぇ…」

「はあ…二人はお友達なんでしょうか?」

「お気に入りなんは確かやろね…あの…人嫌いの綴が連れてるんやから…雨衣ちゃん以来か?」


エレベーターで四階まで上がった。
特に立ち止まる事はなく侘助は通り過ぎたが、四階は織物の史料館になっていた。
そのまま奥の階段を上がった所で尽は声を出す。

「ここ…知新博物館より所蔵が凄くないですか?」
史料館もさる事ながら、この場所にある物の価値は尽にも分かった。

「かも知れませんね…あの人が手放さないんですよ」

「おばあちゃん…なんですね」

「…そうです…」

「侘助さんはここから博物館に通勤されてるんですか?」
何かを探し始める侘助に尋ねつつ辺りを見渡す。

「いえ、私は博物館職員の独身寮に住んでいます。ここには祖母と職人達が」

「独身寮があるんですか?」

「ええ…まぁ…今、寮に住んでいるのは私だけですが…この辺りでしょうか…」
侘助は何かを見つけ、尽の前に差し出す。

「襖絵自体は民家で長年使われていたので、家庭の匂いしかしないと思います」

「はい…これは?」

「用途は違いますが…襖絵の時代を予測した同じ時代の紙です…サンプルに持ち帰りましょう」
差し出されたのは…
扇子を掛軸に加工したもの、
何かを走り書きした様な和紙の茶色のシミ部分を額に入れた物、
何も書かれていない巻紙である。

「大丈夫なんですか?持ち出しても」

「構いません…史料館には出せない、個人的な物ばかりなので」

「この…茶色の紙は?」

「蔵の床下から出て来た物ですよ…先代の誰かが書いた文の下書きの一部で価値はありませんよ」

「なら…どうして?」

「柿渋ですよ」
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