スナオ
☆☆
「クラクションは鳴らすなよ」
 砂尾と名乗る男が助手席から指示した。砂尾です、と自己紹介するだろ、人が次に放つ言葉は決まってるんだ、『素直なんですね』、だ。というのを出会って数時間で五回聞かされている木村は憂鬱な気持ちを胸にしまっている。そもそも、なぜ、いや、どうして、砂尾なる人物と行動を共にすることになったのか不思議で仕方ない。
 不思議?
『不思議って本来ありえないよ。知らないから不思議なの。知ってしまえば不思議でなくなる』
 彼女である瑞穂の言葉が木村の脳裏をよぎった。彼女と同名である某銀行を口座開設した際に、『同じ名前なんだから特典がなきゃおかしい』と窓口に苦情を申し入れ、支店長を登場させ、最終的には株主優待券を貰うという好待遇は記憶に新しい。
 が、今は砂尾という男が隣にいる。手入れの行き届いた長髪に、切れ長の目、白いワイシャツからのぞく鎖骨には星形の傷がある。
「不思議だろ?」
 クラクション関連の指示を出し悦に入っている砂尾が口火を切った。
「知らないですからね」
 木村はさらっといった。
「いい切り返しだな。見直したぞ」
「見直されるこはしてないですよ」
「切り返しと距離感は人生で重要だ」
「距離感?」
信号が赤になりシフトレバーをニュートラルに戻し、木村は砂尾の表情を見た。
「ああ、距離感に反応したか。いい兆候だ」と砂尾は信号が青に変わったぞ、と目顔で示し、木村は慌ててギアを入れアクセルを踏む。「ほら、見ろ!自動車事故を起こさないためには車間距離が重要だろ」
「まあ、そうですね」
「いい反応だ!だからよ、人生においては距離感が重要なんだよ」
 説明になっていない説明を木村は納得せざるを得ない。否定しようものなら何を言われるかわからない。
「勉強になります」と木村が儀礼的な文言を放てば、「人生の勉強は十九歳から始まるからな」と砂尾が持論を展開した。
「あと一つ、切り返しは、なぜ重要なんでしょうか?」
 低姿勢を得意とする木村は訊いた。
 ふっ、と砂尾は鼻で笑い、「人生を切り返し出来ないやつが多いだろ。たとえば、『わたしはいつになったら結婚できるの?』『ほんとこの会社嫌なんだけど』『いつになったら貧乏抜け出せるんだろ』とか。そんなのな、切り返せばいいんだ。結婚できるの?じゃねえ、堂々としてりゃいいんだよ、会社嫌?辞めてサーフィンでもしろ、貧乏、だ。そんなの知るか。貧乏という思い込みを切り返せばいいんだよ」口調は笑いが表情は冷静さを保ちながら前方を見据えていた。
 木村も、「はあ、なるほど」としか言いようがない。なにせ砂尾の持論はめちゃくちゃなのだ、だけど、すっと心に入ってくるものがある。
「お前も災難だな」
 砂尾が心配そうなそぶりとは裏腹な嬉しそうな声音と表情を木村に向けた。

 
< 1 / 4 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop