私が恋した男(旧題:ナツコイ~海男と都会男~)
 四つ葉出版社のロビーを通って階段を上がってフロアに入ると、姫川編集長が自席で眉間の皺を深く寄せながらパソコンの画面をじぃっと見ていた。

 まだ午前中というか就業時間が始まったばかりで、普段なら遅くに出社する筈なのに……。

「姫川編集長、おはようございます。今日は早いですね」
「スケジュールが詰まっているから、今のうちに出来ることをやっているだけだ」

 姫川編集長は缶コーヒーをぐびっと飲み、またパソコンのキーボードを打ち始める。

 よく見ると日焼けしている肌でも目の下のクマが出来ているのが分かり、忙しい中でも原稿を作っている姿を目の当たりにして、さっき遅くに出社する筈なのにと思っていた自分が恥ずかしくて、こんな姿勢じゃ駄目だと反省をする。

「これから季刊に関する会議があるから、お前も同席しろ。寝たら承知しねーぞ」
「寝ませんってば、失礼な」
「なら、会議の準備をさっさとしろ」
「はい」

 姫川編集長は机の上にある山積みの書類を適当に掻き集め、引き出しの中に突っ込み、私は鞄からメモとペンを取り出して、姫川編集長と共に会議室へ向かった。

 四つ葉出版社の3階にある会議室に入ると他部署の人たちや高坂専務が既に会議室の椅子に座っていて、姫川編集長はキョロキョロと誰かを探しているみたい。

「水瀬、荒木はどうした?」
「荒木はチアの大会の取材が山場だから、副編集長に任せるってさ」
「どうも…、荒木の代理で出席しました」

 会議室の隅に居心地悪そうに座っている男性が椅子から立ち上がり、ぺこりと姫川編集長に挨拶をした。

「荒木の奴…」

 この場に荒木編集長が居ないと分かると、姫川編集長は苦虫を噛み締めるような顔つきになり、ほんと荒木編集長ってツチノコと言われるくらい四つ葉出版社に居ないんだもんな。

 いつか姫川編集長のどなり声が編集部フロアにこだまするんじゃないだろうかと、そんな予想がつく。
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