桜が咲く頃~初戀~
『風邪ひくよ』

優しい声に右の片目をそっと開け香奈は月が幻想を見せているのか?と目の前を右手の手のひらでヒラヒラと扇いだ。

『綾香。帰ってきとるんよ』

そう言った声と影は香奈の寝転んでいる足元に腰掛けた。


圭亮だった。昨日桜の樹の元で再会した時とは少し違う大人の顔をして香奈を見ていた圭亮をしばらく寝転んだまま見詰めていたが。これは幻想なんかでは無いと慌てて飛び起き。

圭亮との間に電気ストーブを挟んで座り直した。

「綾香」は圭亮の幼馴染で香奈も幼い頃から知っている。圭亮が東京の大学に通い出した頃に綾香が上京し、圭亮と暮らし始めた事はおばぁちゃんから聞いていた。


多分、香奈はこの頃位から何だか分からない喪失感を覚え何時も何時も心をかき乱されていた。それは、母紀子が父の良幸と結婚し一緒に暮らし始めた頃と、彩未が生まれた瞬間に味わった気持ちと全く同じだった。

それが、どう言う気持ちかも、何が苦しいのかも何が足りなくなったのかも香奈は分からなかった。

それを胸の奥に蘇えらせた香菜はまた『喪失』と言う気持ちになった。


圭亮から「綾香」と言う名前は聞きたく無かった。



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