桜が咲く頃~初戀~
その窓の隙間から本を差し込もうとした時だった

『ええよ、上げる』

香奈はそう言って下を向いた。圭亮は何だか寂しそうな香奈の横顔が薄らと赤くなるのを可愛らしいと思ったし、好きだとも思って恥ずかしくなった。

走り出したバスを何時までも眺めていた圭亮は文庫本を左手に持ったまま右手の自転車のブレーキを外して回れ右しながら香奈から初めて貰ったプレゼントを本当に嬉しいと思いながら見詰めた。


その、大切な本を今、綾香が圭亮に突き出して睨んでいる、綾香はその本の真ん中に挟んである1枚の写真を引っ張り抜くと圭亮にほり投げた。写真は投げられた勢いに逆らう様に静かにゆっくりヒラヒラと揺れながら綾香の足元に落ちた。

『この子。伊藤のバァちゃん所に休みのたんびに来ていた地味な子でしょ!?』

そう言って綾香は足元に落ちた写真を左足で踏みつけた。



それは、数年前の夏に伊藤のおばぁちゃんから頼まれて香奈と街の花火大会に一緒に出かけた時の2人で映るたった1枚の写真だった。

香奈はおばぁちゃんに縫って貰った白地に赤い花火柄の可愛らしい浴衣を着ていた。香奈は笑いもしない顔だったけれど圭亮は満面の笑顔で少し離れて並んで撮った事を圭亮は思い出した。

『香奈ちゃんは地味なんかやないよ』

圭亮は静かに言いながら立ち上がると綾香の頬を右手の平で強く叩いた。圭亮はそんな自分にびっくりとして身体が動かなくなった。初めて人に手を上げたのだ。

綾香は気の強い性格だったので間髪入れず背の高い圭亮の頬を飛び上がって、思いっきり叩き返してから


『本当は子供なんか出来たりしてないよ!』

そう言ってアパートを飛び出した。


圭亮は出て行く綾香の背中も見ずに綾香に踏まれていた写真を拾うと泣き出した。

何故か悔しかったのだ。しばらく写真を見詰め炬燵の上の箱ティッシュを1枚引き抜き優しく拭いて部屋に飛ばされた『銀河鉄道の夜』の本を拾い、また写真を挟んでボストンバッグにしまった。


それ以来綾香は帰って来なくなった。1度圭亮が留守の間に、荷物を取りに綾香は部屋に帰って来て綾香の揃えた荷物の全てが部屋から消えていた

綾香は気の強い性格だったけれどキチンとした細やかな部分もあり、その部屋は殺風景にはなったものの、綺麗に掃除もしてあった。風呂場には綾香のヘアートリートメントだけがポツンと残されていた。

圭亮は思った、圭亮の生活を支えて居たのは綾香だったと。物が無くなった部屋は冷たく冷たく冷えて圭亮を寂しく襲っているみたいに感じたけれど

何故か圭亮は少しホッとした気持ちにもなっていた。




< 95 / 222 >

この作品をシェア

pagetop