聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
やっと追っ手を撒いたころには、二人はくたくたに疲れ切っていた。

「アタナディールの月信仰では、満月の日の生贄は人間だという話を聞いたことがある。くそ、なんて野蛮な風習なんだ…わかるか? お前は生贄にされかけたんだ」

そのカイの説明でようやく、リュティアも自分の身に迫っていた危機を理解することができた。

リュティアは言葉もなく、ただ荒い息を整えることしかできなかった。

リュティアの体を気遣ってのことだろう、カイは山道から少し離れた窪地であるここを、多少町と近いが致し方ないと、今晩の宿として定めたようだった。

カイは薪を集め、火打石を取り出す。しかし何度やっても、火がつかない。

この二か月の間に何度か野宿を経験したが、やはり不器用なカイには一度も火打石をうまく使うことができなかった。

だから暖を取るには身を寄せ合うしかないと思うのだが、カイはいつも、なぜかそうしたがらない。今夜もただ自らの外套を脱ぎ、リュティアに着せかけただけだった。

「…すまない」

リュティアはひどく驚いた。

「なぜ、カイが謝るのです?」

カイからの返事はなく、それっきり二人の会話は途絶えた。

静かすぎる夜だった。

二人はなるべく下草が生えてやわらかい地面を選んで横になったが、とても眠れるような精神状態ではなかった。

それでも疲れからリュティアがうとうとしかけた頃、“それ”は茂みをかき分けるような音を立ててやってきた。

隣のカイがすぐに跳ね起きる。

「…起きろリュー! 奴だ!!」

リュティアが慌てて身を起こした時、“それ”は姿を現した。

―グルルゥゥゥゥッ!

低いうなり声がすぐそばから聞こえる。

闇夜に溶け込むような漆黒の体。赤く光る二つの眼と、―

二本の赤い角!

「狼の魔月…!!」

カイは二人が持つ唯一の武器である、黄金づくりの剣を引き抜いた。

魔月は一匹のようだ。地面を蹴り、軽々と跳躍して二人に襲い掛かる。

カイは黄金づくりの剣を魔月に向かって勢いよく振り下ろした。がむしゃらなその様は剣を振り回しているというより剣に振り回されているようだった。カイは昔から、剣が何より苦手なのだ。

けれどそんなことを言っていられる場合ではない。

カイの剣だけが、二人を守る唯一のものなのだから。

いや、二人を守ってくれるものならほかにもある。この二か月、執拗に魔月に追われながらも逃げおおせてきたのはそのおかげだ。

そして運命は二人に微笑んだ。

ぽつり、と数滴、灰色の空から雨粒が落ちてきたかと思うと、あっというまに本降りになった。

魔月は雨に濡れると、急に身を逸らせて苦しみだした。

そして尻尾を丸めて逃げ去って行った…。

あたりには二人の荒い呼吸音と、静かな雨音だけが残る。

カイは剣を握ったまま、そしてリュティアはカイの背中にしがみついたまま、しばらく身じろぎひとつできなかった。

二人がしっとりと雨に濡れる頃、ようやくカイが脱力して剣を収めた。

「大丈夫、もう大丈夫だ、リュー」

「…はい」

リュティアは緊張から解放されてくたりとその場にへたりこんだ。

「…もうアクスの住むという小屋も近い。ちゃんと情報を集めておいたから心配ない。彼さえいてくれれば、きっと」

「最強の戦士アクス様…」

今や彼は二人に残された、希望の戦士だった。

その日は止まない雨に助けられながら、大樹の陰で仮眠をとり、翌朝二人はアクスの小屋めがけて出発した。

歩きながら、リュティアは考えていた。

なぜ、魔月は自分たちを追ってくるのだろう。

なぜ、雨を嫌うのだろう。

なぜ…

疑問は際限なく頭の中をめぐる。しかしそれをカイに問いかけることはできない。何も知りたくなかったからだ。もし知ってしまえば、何かが崩れ去ってしまうような危うさを感じていたからだ。それはリュティアの弱さだったかもしれないが、彼女が幸福にしがみつく唯一の方法でもあったのだ。
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