聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
「ラミアードお兄様、待って。お父様、どうかお父様も一緒に」

しかしラミアードは止まらなかった。

カイもリィラも、何かをこらえるように唇を引き結び、リュティアを見ようとしない。

廊下を曲がる直前、微笑んだシリウスが不意にせき込み、体をくの字に折り曲げるのが見えた。

何かがおかしかった。

けれど、何がおかしいのか、わからない。頭がついていかない。

引きずられるようにして走りながら、リュティアは花園宮の様子がいつもと違うことに気が付いた。あっちにもこっちにも、父のように衣を赤く染めた者達が倒れているのだ。そして彼らに馬乗りになるようにして蠢く、黒い生き物―

ひっと、リュティアは息をのんだ。

生き物は、おそらく狼と呼ぶ動物に酷似していた。酷似していたが、決してそうではなかった。なぜならその頭に、二本の赤くまがまがしい角が生えていたからだ。

ものを知らぬリュテイアだが、彼らの正体にだけは思い当たるものがあった。

彼女が好んで読む物語にも、たびたび登場する獣―

(魔月…!?)

まさか、と思う。

魔月(まげつ)は約三千年前にそのほとんどが地下で眠り、残ったものはただの動物となったはずだ。それがなぜ、今、目の前に実体を持って現れているのか!?

気が付くと、ラミアードもカイもリィラも、それぞれの得物を抜刀していた。

「カイ、こいつらに普通の武器はまったく効かない。うまくかわして、外へ出るぞ」

「はい! 殿下!」

曲がり角から走り出てきた新たな魔月に、ラミアードは果敢に向かっていく。

彼がその剣で魔月の持つ鋭い牙を防いでいる間に、三人が廊下を駆け抜ける。間合いを計って、ラミアードもすぐに追いついてきた。

駆け通しに駆け、花園宮の門にたどりつくと、そこでも衛兵たちが倒れていた。

今日は皆様子がおかしい。

衛兵たちが駆けまわり、叫んでいる。

「伝令―! 国王陛下が崩御された…!!」

(ホウギョって、何)

意味を知らぬリュティアにとっては、その言葉を聞いてくっと眉根を寄せて呻いたカイの様子だけが、印象的だった。

ラミアードが三重の門のカギを次々と開け、リュティアはもう何年ぶりになるかわからない、外の世界へと、よろめきながら足を踏み出した。

風の匂い。大地の匂いに、憧れていた。

しかし、外の世界は、人々の苦痛にうめく声と嫌な臭いで充満していた。

リュティアは、きっと恐ろしかったのだろう。

けれど自分が感じている感情がなんなのかすら、考えられない状況だった。

なぜ魔月が現れたのか、それだけで思考が停止状態だった。こんなできごとも、こんなに走るのも、生まれてはじめてだったのだから、無理もなかろう。

門を抜け街に出たところで、四人の行く手を獅子と熊の魔月がふさいだ。

おどろおどろしいその姿は、初めて見る街を飾る花々の美しさと、あまりにもかけ離れている。

獅子が三体、熊が二体。明らかに、数が多い。

彼らは一斉に、四人めがけて襲い掛かってきた。

ラミアードが獅子に斬りつけるのと、カイががむしゃらに剣を振り回すのがほぼ同時だった。何も武器を持たぬリュティアにも、熊の一体が牙を剥いた。

「リュティア様―!!」

突然、リィラがリュティアの前に飛び出してきた。


生暖かい何かが、リュティアの頬を濡らした。


何が起こったのか、わからなかった。


リィラの胸に、深々と、熊の牙が食い込んでいる。そこから流れ出す、真っ赤な色彩。


「リィラ――――――?」

ゆっくりと、リィラの体がその場に崩れ落ちた。

「リィラ―!!」

カイの悲痛な叫びが鼓膜を打つ。

リィラは真っ赤な色彩の中に倒れ伏しながら、息も絶え絶えに何か言った。

「兄様…しゃんとなさって、ください…早く、リュティア様を連れて、逃げて…この方は、世界になくてはならないお方…聖乙女(リル・ファーレ)様…」

リュティアには何も聞き取ることができない。

わからないのだ。何も。

「リィラ…お仕えできて、幸せでした…」

何を言っているの。

リュティアが思わずリィラに手を伸ばそうとしたとき、強い力が体をさらった。

ラミアードだった。

「今だ、走れ!」

なぜだろう。リィラを置いて、リュティアは再び走り出している。あんなところで横になっていては、冷たいだろうに。なぜ。

唸りながら追いすがる魔月。リィラを見ようと首をねじっていたリュティアは、その時不思議な光景を見た。

雲もないのにピカッと稲妻が走り、追ってきていた魔月を直撃したのだ。

まるでリュティアを助けるように。

しかしそのことについて考える余裕はなかった。リュティアは息を切らして、限界まで走り通さなければならなかった。

悪夢のような出来事の中で、リュティアは我を失いかけていた。

しかし残酷なことに彼女の悪夢は、これで終わりではなかったのだ。

街道に逃れるべく走っていた三人の目の前に、新たな魔月が現れた。

二本足で立ち、人の二倍の巨体を誇る、獣人の魔月だった。リュティアも本で読んだことがある。彼らの爪は鋭く、口は耳まで裂け、近づく者を丸のみにすると言われていたはずだ。

ラミアードとカイは決死の表情で、二人同時に獣人へと向かっていった。

しかし彼らの剣は弾き返され、かすり傷ひとつ負わせることができなかった。

「くそっ! カイ、リュティアを連れて逃げろ! 必ず守れ!」

「何を言うのです殿下!」

「私がこいつをひきつけるから、いいなっ!」

ラミアードが跳躍し、魔月の背中へと襲い掛かる。

「お兄様っ!!」

カイはひどく迷っているようだった。リュティアの手を握ったが、走り出せずにいる。それはカイの大きな過ちのひとつとなった。

リュティアに、もっとも見せたくない場面を、見せてしまうことになったのだから。

魔月の背中に剣を突きたてようとしていたラミアードの下半身を、魔月の大きな口ががぶりととらえた。
そして――

「うぁぁぁぁっ!!」

ばりばりという何かが砕けるいやな音を、リュティアは確かに聞いた。

「カイ、私はもう…!早く、逃げろ!!」

「殿下ぁぁ―――っ!!」

至近距離で、リュティアはカイの涙を見た。

でもなぜ、泣いているのだろう。

ラミアードの懐から、ひらりと何かが舞い落ちる。

それは幻の花サンテギウスのしおり。

真っ赤に染まり、見る影もなくなった、二人のチケット――。

「リュー、お前だけは、お前だけは守る!!」

「カイ…?」

リュティアを抱きかかえ、カイが走り出す。

待って、カイ。

どうしてお兄様を置いていくの。

「お兄様?」


呼ぶ声は、届かない。



「おにいさまぁぁぁ――――っ!!」


光陽暦2999年。

フローテュリア王国第一王女リュティア・ティファリス・フローラル、16歳の誕生日の日。

彼女は故郷も、家族も、夢も、すべてを失った。

たったひとり、カイだけを残して――…。
< 8 / 121 >

この作品をシェア

pagetop