彼方の蒼
 僕がなにも頼まなくても、倉井先生は制服のエンジのネクタイを結んでくれた。
 首の近くで白い両手が結び目を作る様子を、僕は不思議な気持ちで見つめた。
 こういうことを毎日してもらえるんなら、家族っていいよな。
 途中、先生の髪が一本挟まってしまい、それを取るためにさらに接近した。
 息がかかる距離で、僕はドキドキした。
 髪をおろした先生の耳に光るダイヤのピアス。
 なにもしていなくても、扇形に長く伸びたまつ毛。
 赤みがだいぶ直ったけれど、それでも濡れている瞳。
 化粧っ気がなく、青白い肌。小鼻の横が少し荒れている。

「はい。できました」

 これ以上見ないでと言っているようにも聞こえた。
 先生の結ぶさまは、手馴れてはいなかったけど、下手でもなかった。
 これだけで男の影を見抜くことは、僕にはできなかった。
 とりあえず、部屋には匂いも灰皿もないんで、タバコ飲みの恋人はいないようだ。
   

 玄関先で、僕はブーツの紐を丁寧にほどき、確認するようにゆっくりと結んだ。
 すぐ後ろに倉井先生の気配。
 サラリーマン家族ごっこは、まだ継続中。
 先生は送ってくれるといったけど、考えてみたら僕は自転車で来たんだっけ。
「さっきの電話、誰からだったの?」
「……あなたの、お母様」
 え。
 まさか、そういう返事がくるとは思わなかった。
 なんであいつ、僕も知らない倉井先生の携帯番号知ってるんだ!
 ちくしょー、あとでおぼえていやがれ!
「渡辺くんが眠っているときにも、何回かあって……田中先生からもありました」
 田中先生っていうのは、気持ちよく頭の禿げあがった学年主任。
 俗に言うハゲナカ先生。独身。
 指の分かれた靴下を履いているため、水虫の疑惑あり。
「なんでハゲナカまで倉井せんせの携帯知ってんだよ?」
「大騒ぎしているみたいです。渡辺くんがいなくなったって、お母様から学校へ連絡がいったらしくて……。みんなで探しているみたいです」

『みたいです』って……先生……。
「かくまってくれてたの? 先生」
 なにも言わずに、僕につきあってくれた。
 そのことが、うれしくて、ただうれしくて、僕は立つに立てなかった。
「ありがとう……」
 あとでどんなイヤミ言われるかわからないのに、僕のことを黙っていてくれた。
< 29 / 148 >

この作品をシェア

pagetop