印毎来譜 「俺等はヒッピーだった」
1974年2月4日 えらく寒い。
でも天気いいし健康診断行ってみっか。

親父も気にしてるし、アフガンの下痢地獄以来、
本調子じゃねえ。ついでにパスポートも返納するか。 

関内に出てザキの商店街をブラつく。
俺のバンドプロデビューの場所だ。

なんと綺麗な商店街になっちまってた。
バーや飲み屋は消えて、ピーナツはキャバレーになってる。
2年で変わりすぎだぜ、早すぎるわ。

山下公園まで歩く。 車が多いな。
狭い道路をウネウネヒュルヒュル。なんでそんな急ぐかね。

ドイツアウトバーンは片側7車線。広かった。
誰も抜きもしないし抜かれもしない。
車線なんか変えず走るぞ。まあ、比べちゃいけねえか。


出国の時に種痘打った中区の病院に行った。
ここは変わってない。ほっとする。

おっさん先生、血取って血圧やって聴診器あてて肺、
腹、背中、脈。異常なし。

次に、ちっこいトンカチで膝二三回叩いて、

「こりゃ△○#)□$がありますね」 

え? なに!?河童の屁?

「っは いや、脚気の気」 

カッケノケ? バッカじゃねえか。
だからなんなんだあほんだら、患者を惑わす河童野郎め。

「ちょっと栄養失調気味ですかね」 

気味? ギミってなんだ。ですかねってなんなんだ。
はっきりしやがれ、ばか。 

「じゃ一応お薬出しましょ。これなくなるまで飲んで
ください。 じゃいいですよ」 

一応? じゃあいいです? なんだってんだ。

栄養失調はこれ飲んで治ります、ダイジョブですよって、
笑顔で素直に素人に分かるように言ってみろ! 

カッパの屁にギミ? っけ ヴァッキャロ 
ったく、あーあ こなきゃよかった。


旅券返納に山下公園へ行く。2年前の3月24日。
この大桟橋からひとりソ連船に乗った。

たった2年でこうも変わるかね。この景色も 俺もだ・・
日本より何千倍も濃い毎日だった。人は変わるもんだ。

産貿のシルクセンター。名残惜しいが返納しよう。
しかし、もうすっかり自由化だな。結構混んでやがる。

係員、ビザや入出国印でいっぱいの俺の旅券めくって、

「では どうしますか?」 

どうしますかって、なに? 帰国しちゃったんで、
返しに来たんじゃん。返納でしょ?

「はい。このまま返納されるか、それともお手元に持って
おくか選べますけど」 

ええ! ほんとかよ。じゃもっとくよ、たのむわ。

「じゃ お待ちください」
 
ボール盤みたいなもんでパスポートを押してる。

「はい どうぞ」 

黒い表紙から裏表紙までぐっさり、ポチポチの穴があいてる。

へえ、これでもう持ってていいんですか?

「はい。もう使えませんのでどうぞお持ちになってください」 

へえ、知らなかったぜ。そんなのどこにも書いてねえし。

ああ、ポチポチが「VOID」の文字になってるわ。
これで無効ってわけか。ま、思い出のパスポートだもんな。

役所にしちゃあイキなはからいだ。上出来じゃん。もうけた。



まあ、旅券は無効になったけど、俺りゃ違うよ。
俺の旅はずっと有効よ、生涯無効にゃならねえ。
 

行ってきたよ! 

切子が積み上がった工場の入口ガラッと開けて親父に検診の報告。
 
仕事の手を止めて、鼻眼鏡にして睨んだ。

「おお」 机に座ってハイライト一服。

「どうだったんだ?」

いや、なんでもなかったよ。

「あそうか、じゃ良かった。まあまだ顔色は良くないぞ。
ちゃんと三食食えよ」

はい。そのうちよくなります。


「おーい、昼にするかあ」

洗油と粉石鹸つけてタワシで手を擦る親父。
高校の時、工場で雑用手伝ったが、タワシで手の甲擦る、
こりゃ痛え。親父の手は踵並みだ。

帽子はたいて、でかい屁を一発こいて「よおしっ はっは」

3歩で玄関入ってお勝手に座る。
お袋の作った焼き魚におしんこをほんとに旨そうに食う親父。
 
親父、ちょい歳くったな。 自分の旋盤工場持って15年。
36の時、長く務めた明電舎辞めて家族で横浜に来た。
 
俺、8歳の時だった。学校や社宅の友達と泣いて別れた。
親父の約束はちゃんと果たされて、マルキン自転車と
テレビを買って貰った。 

親父、早稲田の高専夜学理工機械科行って、昼間は工場
夜は学校の苦学生。機械が好きだったって。

そんで赤紙が来て戦地、南方戦線で負傷した。
復員したがマラリアを再発し完治まで1年も入院してた。
ガキながら覚えてる。
  
「若いうちに体こわしちゃだめだ」 重い独り言だ。

 
昼飯食いながらお袋にも診断報告。

「よかったわね。ひと安心だわ。少しゆっくりしたら
仕事しなさいよ。遊んでちゃまずいわよ」

きたな、お袋め。俺はもうガキじゃねえ、2年前とは違う。

うん。来月、立川引っ越すわ。

「ええ!?」 開いたくちが塞がらねえお袋。

「あんた、せっかく帰ってきたのにまた家に居ないの?
おとうさん! おとうさん!」 

親父「仕事はどうするんだ」

はい、バンドか普通のバイトかなんかやります。
だって、家で金せびるわけにゃいかないよ。へへへ

「っはっは、そうか。ま頑張れ」

はい。 とは言ったがアテはねえ・・・
でも俺の才能でなんとかなんだろ。グヘヘ


帰国4日目。晩飯はもう普通。納豆に味噌汁。
飯食って熱めの風呂に入る。やっぱり日本の風呂だな。
肩まで浸かれる、洗い場はある。誰が考えたか世界一だ。

夜、FEN聞きながら日記帳並べて、旅で出会った奴等の
住所を書き出す・・奴等に会いに行くかな。
 
帰国後の社会復帰の状況聞いてみたい。 
ヒッピーと日本の生活、ギャップをどうしてんだろか。


2月5日 朝飯食って河童の一応薬飲んで、五反田へ。
3年前、印刷工場でバイトした時のおやじでも居れば、
バイトの話でも・・・。

工場は変わってねえ。裏に回って作業所に行く。
やっぱり、もう知ってる顔は居ねえ。

守衛所通ったら居た。

おやっさん、ご無沙汰してます。

「あっ、どしたの?」

いやあ、またバイトないかと思って。

「俺はわかんないよ。新聞で応募とか、部署通しなよ」

あんだけ一緒に仕事してたのに、素っ気ねえ返事だ。
  
「俺、今主任なんだ。忙しいからまた」奥へ消えた。

そういやあ作業服も違うわ。そうか、そうだよな。

帰りの京浜東北。車両も変わったのか、中高6年通った
見慣れた景色も、線路際にビルが建って遠くが見えねえ。

町も変わった、みんな変わった。 
しかし日本のスピードは早すぎるな。

ロンドンはたぶん50年経っても路地までわかるぞ。へへ 


帰ったら小雨が降ってきた。日本の雨は細く優しい。
インドやバンコクじゃ暴れ雨。
晴れてるのに急にヴァシャーときて15分くらい、
ピシッと止んでパッと晴れる。

晩飯食ってみんなはテレビ。俺は部屋入ってテープレコーダー
引っ張り出して4.5年前作った曲を聞く。
 
っへええ、我ながらいい曲じゃねえか。 へへ
 
中2の時、リヤカーで楽器運んでタイコ演って5百円もらった。
中卒の月給が一万もねえ時、一晩2時間で5百円だ。
それが病みつきになった。

小学校5年の音楽の時間に、ウクレレで埴生の宿を弾いた。
下宿してた専修大学のプレスリー大好き兄ちゃんに教わった。

そんで、中2でバンド始めてギターでポールアンカを唄った。
でも、ベンチャーズブームでギターの上手い奴が一杯出てきた。
そこで、誰もやりたがらないタイコに鞍替え。
セットは、テント屋のせがれのを借りて演った。

バンドやったり柔道やったり軟派したり、なんでもあり、
最高の学生生活。 そんで、高2で受験にスパートかけた。

三当五落。5時間寝たら受からねえ、ナポレオンは3時間寝て
天下取ったって。ほんとかよ。

じゃあ・・FEN聞いて、ラジ関できのうの続き聞いて、
高崎一郎のオールナイトニッポン聞いて、参考書やって教科書
やって、バカみてえに顔真っ白にしてやった。


入学試験の頃、東大の安田講堂が占拠された。
寒い中、放水されてやがる。カクマルだミンセイだナンダカンダ
全国の大学がこんなんなってるとは、教師も親も言わなかった。 

そんで大学入ったらロックアウトだ。笑ったぜ。 
勿論入学式なんかやりゃしねえ。

正門閉めて机を7段も8段も重ねて、横っちょの守衛のドアから
申し訳なさそに入ると、黒と赤で墨書きの二畳敷きの立て看。

ヘルメットに暑苦しい手ぬぐい覆面が、ワレワレワーしか
聞こえねえ喧しいアジ。何叫んでんだか、ごくろさんだ。

そんで掲示板には<本日の講義はありません>ヴァッキヤロー

なんだってんだ。くだらねえ、俺りゃ何しに来たんだ一体。
単位がなんだ。学校がぐしゃぐしゃで、なにが卒業だ。

学部関係なく、哲学も美術もデュモリンもラブも、数少ない
やってる授業で面白そうなのは全部出たが、単位は無し。

そんで5月。完全にあきらめた。あほくせえ。


楽器屋と本屋のはしごだ。お茶の水で買ったオープンリール、
ギターと歌で曲録ってたわけだ。20曲位あった、忘れてた。

テープが切れてる。ラジ関とかTBSのオシャカ寸前の
1本50円で買った中古だもんな。セロテープで直した。

冬の夜はこういうのに限る。うっひっひ


でも俺の旅はオシャカじゃねえぞー!



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