喩えその時が来たとしても
 
「紅茶、美味しいです牧村さん。これ、茶葉は何ですか?」

 彼女は牧村しおりさん。俺の周りには居なかった、弁舌家タイプの女性だ。かと言って、決して押し付けがましさを感じさせないその物言いからは、人柄の良さがにじみ出している。

「アールグレイなんですけど、ここのは特に香りがいいんです」

 これは驚いた。俺はあの独特の匂いが苦手でアールグレイは避けていた。だがこれの香りは全く別物で、まるで花畑でそよ風に吹かれているような清涼感だった。

「アールグレイが旨いと思ったの、実は初めてなんです」

「そうなんですか、美味しかったら良かったですわ。これはパリの露店商から店を聞き出して、暗い路地裏のそのまた奥に有る店を……」

 ツアコン時代の見聞録を面白可笑しく語る、彼女の話は尽きない。俺は電話で帰宅はもう暫く掛かると告げ、何か言いたげだった母を冷たく突き放し、牧村さんのご好意にドップリ甘える事にした。

「岡崎さんすいません。乾燥にもう少し時間が掛かるみたいで……ご迷惑ばかりお掛けしてしまって……」

「いえ、とんでもないです。お話も面白いし、すごく癒されます。いや最近、緊張のしっ放しだったもので」

「まぁそうでしたの? 差し支えなければ、どうしてなのか教えて下さらない?」

 誘い水を打ったのは俺だ。勿論差し支えなど無い。いや寧ろこうなる事を望んでいた。誰かに自分の身の上を聞いて欲しかったのだ。

「すいません。荒唐無稽な話なんですが……」

 俺のあの悩みを、何ひとつ疑う事なく彼女は聞き入れてくれた。不思議だったのは、こんな話なのに何故だかさして驚いた様子も無かった事だ。

「それは大変でしたわね。そこで私が追い打ちを掛けてしまったなんて……本当にごめんなさい」

「いや、牧村さんは運の悪い俺にそう動かされただけだと思います。下を歩いていたのが俺じゃなかったら不注意で植木鉢を落とす事も無かったんだと……」

 でもまだ運は尽きてはいないようだ。こんな出会いが有ったのだから。

 ピーッ、ピーッと洗濯機が呼んでいる。この楽しい時間ももう終わりだと告げている。

「さあ、乾いたわ。良かった。シミも残ってないみたいです」

 洗濯が終われば、もう牧村さんと俺は只の見知らぬ他人同士に逆戻り。

「岡崎さん。本当にすいませんでした。厚かましいとは思うのだけれど……このオバサンとお友達になって頂けないかしら」

 本当に俺は運が悪いのか? と、疑ってしまうようなその日の出来事だった。


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