喩えその時が来たとしても
 
 そして朝になり、俺はいつもより三十分も寝坊した事に焦っていた。どうやら心が軽くなってから摂った睡眠が、思いの外深かったようである。

「やばいやばい、どうする……ああっ! もう時間がない」

 朝に『詫び状』でも書こうと思っていた予定が、寝過ごしたお陰で全く狂ってしまった。仕方なしに俺はパパッとメモ用紙に走り書きして家を出た。

「ああ、失敗した」

 俺の住んでいる部屋は都心に近い。今の現場へ向かう電車は下り方向になる。空いてる車内で詫び状をしたためれば、少しはまともな文章が書けたかも知れないのに、便箋と封筒は家に置いてきてしまった。しかしこれはこれで結果オーライだ。仕事の間に言いたい事をまとめよう。ああ、それより先に、開口一番なんて言ったらいいんだ! まずそれを考えるのが先決だった。「昨日は急用が出来て……」いや、嘘はいけない。正直に謝ろうと誓ったからこその昨晩の安眠じゃないか。「ごめん。俺がヘタレだったから君を傷付けた……」いやいや意味が解らない、それじゃ俺の真意は伝わらない。「昨日はごめん。帰りにまた時間貰えないかな」いやいやいや今日も『ノー残業デー』になる訳がない。この現場にはそんな余裕は無い。九時まで働いた後にうら若き乙女を飲みに誘うなんてそんな非常識な!

「げっ、もう着いちまった」

 ウダウダと考えながら歩いていたら、いつの間にか現場ゲートの前に立っていた。事務所の脇には馬場めぐみの真っ赤なマウンテンバイクが停めてある。どうしよう……このまま然り気無くプレハブ二階の事務所に顔を出して挨拶するか……。それとも彼女はもう一階の詰所の掃除をしている頃か……。やばい、足が震えてきた。どこまで俺はヘタレなんだろう。すると突然。

「せん……岡崎さん。お早うございます……」

 馬場めぐみに後ろから声を掛けられた。

「おわっ! ばっ、馬場っ、ばばばばっ」

 その思うだにしなかった不意討ちに、俺は精一杯狼狽えてしまった。彼女はいつもの笑顔ではなく、泣き腫らしたような顔で、俯きながら腰を折っている。

「昨日はごめん、これ……」

 俺は彼女にメモを握らせると逃げるように事務所へ駆け上がり、階段の上から彼女に言った。

「ああ、昼一緒にどう? 考えといて」

 シラフの俺が全身全霊を振り絞って放った最大限の軽口だ。でもそこで力を使い果たした俺は、彼女の返事を聞く前に事務所へ引っ込んでしまう。


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