叢雲 -ムラクモ-
「岸田」

「何?」

日が沈み始めていた。人影は少ない。

俺は岸田に車のキーを投げる。受け取った岸田は、怪訝そうにそれを見つめた。

「先に着替えて、車行って中で待ってろ」

「は? なんで……」

「誰か来たら追い払えよ。俺の車が盗難されるようなことがあったら百人一首詠みながら海に沈ませるぞ」

「ちょ……」

「早く行け」

なんでなんだよ、とブツブツ言いながら、岸田は小屋に入っていった。

駐車場は小屋の反対側の出口から行くから、岸田がまたこちらに出てくることはない。

「結局和さん、泳がなかったね」

「アホか。今からだよ」

「えっ」

ポンッと北川の頭を叩いて、俺はゆっくりと海に足を沈めていった。不思議そうに北川が後を追ってきて、俺の左に並ぶ。

もう誰も海にいなかった。

「『今から』って?」

俺がさっき言った意味を理解していないらしい。

俺は腰辺りまで水に浸かって、北川に返答をよこす。

「今から、泳ぐ」

北川が何か言葉を発する前に、俺は水にもぐった。

水が硬い気がするのは、冷たいからだろうか。

海に入ったのなんて、結構久しぶりかもしれない。

なにしろ一緒に来るようなやつもいなかったからな。

岩にタッチ、顔をあげる。

「お……」

夕日が海を照らしていた。

海に太陽が沈んでいるようにも見える。

オレンジに輝く海を見て、俺はハッと振り向いた。

「綺麗……だね、和さん」

青いはずの北川の瞳も、オレンジに輝いていた。

『北川が海に映えてる』んじゃねえ、

『海が北川に映えてる』

北川は海をも魅了していた。

俺は北川が夕日を見ている間に、静かに泳いで北川の後ろにまわった。
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