桜の約束
「記憶というのは、長期記憶と短期記憶に分けられます。記憶喪失に関わるのは特に長期記憶の方で、長期記憶はさらに宣言記憶と手続き記憶に分けられます。
関係のある方だけ、説明させていただきますね。
エピソード記憶が入っているのは宣言記憶の方です。宣言記憶にはもう一つ、意味記憶があります。
意味記憶は知識です。箸の使い方や、常識などです。
こちらを失ったら、日常生活に影響を与えます。
対して、エピソード記憶は要するに思い出ですね。誰かと遊びに行った、などのエピソードを忘れます。
桜さんが失ったのはこちらなので、日常生活に大きな問題は無いと言えます」
たんたんと説明されるのだが、お母さんなぽかんとしていた。
「えっと…?」
「つまり…思い出が無い、ってことですね」
わからない、と言った顔で固まるお母さんに、先生が簡潔な説明を再びした。
今度はわかったらしく、お母さんは頷いた。
「…じゃあ…俺と出会ったことも、忘れてるってことですか?」
俯いて、沈黙していた野上くんが顔を上げ先生に質問した。
「…うん、そういうことになるね」
「そう、ですか」
悲しげな顔をする。
泣かないで。
あなたに泣かれたく無い。
心のどこかが、そう呟いた。
だけど、言葉にはならなかった。
野上くんの涙を止めるほどの思いは、片隅にある言葉だけで、あまりにも無責任だった。
「あの、俺今日はもう帰ります」
「あら、そうなの…?」
お母さんが、残念そうな顔をした。
すいません、と野上くんは頭を下げて病室を出て行った。