虫の本
 治療という言葉を聞いて、俺はようやく捻った足の怪我が治っている事に気が付がついた。
 完全に治っている訳はではないようだが、強烈な痛みは和らいでおり、見た目にも腫れや感覚的な違和感などは見受けられない。
 間抜けな話だけれど、全身の節々が痛むものだから全く気が付かなかったが、これならば無理をしなければ歩いたり走ったりくらいは可能だろう。
 こんな異常な速度での回復は、現代科学では不可能である。
 皇樹同様、栞とやらの効果は認めざるを得ないようだ。
 更に、拡声という言葉に俺の右の眉がぴくりと反応する。
 思い当たる節は、ある。
 俺は再び話が脱線してしまう事は承知の上で、疑問をぶつけてみる事にした。
「拡声って、“誰か声に反応出来る人は居ないか”って叫んでた、あれか?」
「はい……あれ程の大声を出すのはちょっと抵抗ありましたが、お陰でお二人を見つける事が出来ました」
 赤髪の言葉に、ずきりと心の奥が痛む。
 俺と由加が喫茶店で聞いた謎の声──あれは、屋外で強化した声量で叫んでいた彼女の声だったというのだ。
 屁理屈こそこね回してみたけれど、自分でも納得してなかった隠しスピーカー説は、これで完全に消えたと見て良いだろう。
 大体、声は遠くから聞こえていた気がするのだ。
 ……今更ではあるけれど。
 ガラス越しで、しかも店内に流れる音楽にも負けない大声で叫んでいたなんて、明らかに想定外だろう。
 分かりっこないのは、当たり前だ。
 しかし、そんな経緯があったとは知らずに、俺と由加は逃げ出してしまったのだ。
“時間が無い”と言う赤髪の言葉にも耳を傾けず、時間を稼いだつもりになりながら、それは糞天使に時間を与える事になっていたのだ。
 その結果が由加の消滅であり、由加のようなものの“再生”であったのなら、自業自得とはいえ由加があまりにも救われない。
 唇を噛んで俯いた俺に、赤髪も気を使っているようで、彼女はそれ以上は言葉を続けようとしなかった。
 本当ならば、可能な限りの情報を俺に与え、急いで今後の方針を立てたい所なのだろう。
 あるいは、非情に徹して俺を見捨てる事が出来る奴なら、さっさと糞天使の所へ向かって勝負を挑めばいい。
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