虫の本
「……考えたものだな」
 赤髪と由加が消えていった裏路地の奥を凝視しながら、一拍だけ遅れて羽野郎が呟く。
 視界の半分近くが既に無の灰色に、残りは夕焼けで赤色に染まった世界。
 もう俺には、時間に余裕など無いのだ。
 ならば、囮をやるなら俺。
 人外規格の運動能力を行使出来る赤髪を探索に向かわせた方が、はるかに効率が良い。
 俺がよく行く場所のどこかに白紙の栞が有るのなら、俺が可能性のある場所を全て彼女に教えれば良い。
 そして、赤髪が栞を見付けて帰って来るまでの間だけ、俺は羽野郎を足止めしつつ、意地でも生き残れさえすれば、それで良い。
 羽野郎を引き付ける囮役は、蒼井大樹の方。
 栞を探しに行くのは、赤髪の方なのである。
 配役の交代だった。
 由加はあの一瞬でそこまで考え、羽野郎も一瞬遅れはしたものの、即座に由加の行動から本命が赤髪だと思い至ったようだ。
 由加が赤髪を追って、しかも彼女よりも先に白紙の栞を見つけて破棄してしまったら、俺のデッドエンドは確定してしまう。
 俺を逃がさない最高の方法は、俺に白紙の栞を与えない事。
 そう、赤髪を追跡し栞の発見を妨害する事は、奴等にとっても重要な事なのである。
 強化が切れかけている赤髪の追跡なら、由加でも可能かもしれない。
 この一瞬でそこまで“思い込めた”二人の機転は、流石の一言に尽きよう。
 しかし、そうでなくっちゃ始まらない。
 俺はその裏をかくのだから!
「赤髪が居なくなったお陰で、ようやく戦力は互角──いや、俺の方がまだ十倍強いんだっけ? それとも十九倍だったか?」
 羽野郎の顔が、再び驚愕によって固まった。
 それは、俺の自信たっぷりな声が奴のすぐ目の前から聞こえたからだ。
 何という事は無い。
 羽矢を躱す為に低くした姿勢を維持していた俺は、二人の注意が赤髪に逸れた隙に、なりふり構わず全力で羽野郎に駆け寄った──由加とすれ違った時、俺は既に走り出していた、ただそれだけの事である。
 特別な事は何もしていない。
 羽野郎も、俺の動きは間違い無く見えてはいただろう。
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