虫の本
 しかし、俺への対応よりも走り去った赤髪や追跡に行った由加を見届ける方が重要である、と無意識に判断してしまったのだ。
 それは、奴がまだ俺を脅威とは感じていない証拠であり、驚きの表情が一瞬で崩れ、すぐに余裕の笑みを取り戻した事からも明らかである。
 まだこの羽野郎は完全に理解していないのだ。
 本当に気を付けるべきなのは、栞の効果を得ている赤髪の方ではなく、何の力も持たない俺の方だという事に。
 だからこそ、俺が仕掛けるならば頭の回転の速い由加を排除出来た今しか無い、という事に。
「これで、B・Bは使えねーよな?」
 羽野郎は咄嗟に空間を切り裂く“右腕”を振り上げるが、しかし奴はB・Bを呼び出せないまま動きを止めた。
 ようやく俺の接近の意味を悟ったのだろう。
 俺と羽野郎の距離、約一メートル。
 この距離で大爆発を起こす武器など使おうものなら、使用者自身も無傷では済まないに違いない。
 遠距離では無敵、しかし接近されれば使用不能──それは、奴自身が一番分かっているはずだった。
 ……遅い。
 由加と比べてではあるが、その一瞬の思考の遅さが致命的である。
「愚かな。その程度で我を制したつもりかね?」
 B・Bが封じられ、しかし戦う術を持たない無力な俺に対して背を向け距離を取る必要などない、羽野郎はそう判じたのだろう。
 焦点を俺に合わせたまま半歩だけ後退し、腰を沈めて重心を安定させた。
 武器こそ使わないが、打撃戦の間合いと構えだ。
 その思考の切り替えの柔軟さは大したものである。
 射撃武器が使えないならば格闘戦。
 長身である奴の方が腕や脚のリーチに優れている利点があり、体格でもこちらに勝っている羽野郎。
 それはすなわち、俺を捕らえるのに有利だという事である。
 なにも、奴は殴り合いで俺をK.O.する必要は無いのだ。
 奴の長い腕に捕まったが最後、俺は世界を侵蝕する灰色の中に投げ込まれ、由加と同じ運命を辿る事になる。
 俺の頭部を破壊するという目的は達せられないだろうが、灰色に触れてしまった時点で俺の“再生”、つまり敗北が確定してしまう以上、それは些細な問題だった。
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