僕を止めてください 【小説】
再び菅平さんは地味に偏ったことを平然と言った。話を聞いていて、菅平さんの頭の中はロマンチスト数学者の佐伯陸よりも合理性に満ちている気すらした。そして理由は違うが、僕に少し似ているのではないかとも思った。僕に期待しているところを除いて。
「…堺先生から岡本先生について事情を聞いて以来、それから考えるところもありまして、少し話すべきだと思っていました。ちなみに、話しかけにくいことが仕事に差し障ることはないですから。念の為」
「そうですね。知ってます」
「それはどうも。私はこの仕事が気に入っていますので、なるべく職場環境をより良く維持していきたいのです。ですからそのためにはこの機会に普段話さないことを話したほうがいいと判断しました。失礼致しました」
そう言って軽く頭を下げた途端、全録音が終了したみたいに菅平さんの話がパタッと終わった。そしてマグカップを持ったままクルッと踵を返すと、何事もなかったのように自分の席に戻っていった。鈴木さんがその後検査室からパタパタ出てきて、今日の結果を呆然としている僕に手渡した。
「毒物は無しですね。他の薬物も今のところ検出せずです」
「あ…ああ、ありがとうございます」
「でもね、血圧の薬とか痛み止めとかデパスとか、高齢者特有の薬も検出してないんですよねぇ」
そう言われて、僕は菅平さんショックから少し我に返った。
「…それは特徴的かも知れません。高齢者…特に80代の服薬率は90%ですから。2剤以上の服薬率が80%前後あることを考えると、この方はよっぽど健康だったか、それとも…」
「疾患があっても通院してなかった?」
「まぁ、ありえます。あとは死亡前に何日か服薬してなくて、代謝されてしまったという線もありですかね。でも目立った内科病変は確認できなかったです。なにしろ内臓と脳がだいたい溶解してたので。だから正確にはわからないです。整形外科領域では手指と頬骨の骨折痕、あとは膝関節の変形、骨粗鬆症、そして多分死因となった縊死によるであろう頚椎の骨折…」
「それなら痛み止めくらい飲んでてもいいですよねぇ」
「ええまぁ…でもすべての変形性関節症が痛みが出るというわけではないですから」
偏りのない可能性を考慮するために、僕は鈴木さんの意見に医学的な見地を付け加えた。この情報を使って捜査の手がかりにするのは警察の仕事だ。身元を判明させることにどのように役立てるのかはそちらの力量に期待せざるを得ない。そのためには、医学的な見地から、遺体の生前の生活を示唆する手がかりをなるべく拾いあげることが大事だ。鈴木さんとの議論で菅平さんの話を少し忘れて、僕は薬物検査の所見のまとめを画面に打ち込みながら、生前の死者の生活を考えることにした。そして冷めたコーヒーを一気に飲み干した。