僕を止めてください 【小説】
「いえ……覚えてない…です」
「そうですか。それでは、今年の春頃に解剖した水死体覚えていらっしゃいますか?」
「え? ええ、覚えて…ますが」
「解剖が始まるときにこうやって耳を塞いでいらっしゃったんですが、あれはなんだったのかなと」
「さ…さぁ。覚えてないですね…」
本当は覚えていた。あまりにもよくしゃべる屍体だったので、思わず耳を塞いだのだ。僕の頭の中で響いてるのだから耳をふさいでもしょうがないのに。もうダメだ終わりだ…ダメだ…ダメだ…ダメだ…という繰り返しが僕の中の無力感と共鳴しすぎて気が狂いそうになった。それだけだ。それだけだが、それは奇異に映っただろう。その時は僕は誰かにどう見られるなど一切気にしている余裕はなかった。怖ろしい。どちらもほとんど無意識だった。「ちゃんと、やんなさい」の独り言も、音のない所で耳をふさいでいたのも…
「なにか聞こえているんでしょうか? 自殺の解剖の時に」
「へ? ど…どういう?」
菅平さんは話しながら目も上げず作業を続けている。合理性の塊の彼女がなぜ僕にこんな質問をし続けるのか意味がわからない。
「イタコ、って知ってますよね?」
「あぁ、ええ」
「先生もそういうたぐいの能力があるのかと…単なる憶測ですが」
「ぼ…僕がですか? いえ、そんな非科学的なこと、あるわけない…じゃないですか…」
「さっきも鈴木さんがおっしゃってましたが、岡本先生はフツーじゃない、霊視とか出来るんじゃないの? 自殺に限り、って」
「いえ。霊視なんて出来ません」
冬なのにだんだん冷や汗が脇に溜まってくる。菅平さんは忙しい解剖の合間に、僕のなにをどれだけ観察しているんだろうか。
「菅平さんて、そういう非科学的なこと信じるタイプなんでしょうか?」
「いえ。でも、岡本先生がなんで自殺のご遺体で具合いが悪くなるんだろうと考えている時に、そういえば、そんなことがあったなと思い出したものですから、どんな回答をされるかと思って質問してみたんですが」
菅平さんがそんなことを考えていいるとは思いもしなかった。意外すぎるのと、警戒心で骨のブラッシングの手が無意識に止まっている。慌てて作業を再開した。