拝啓 芦田くん
ああ、芦田くん。それは正に、女の悲しい性というものなのでしょう。
項垂れたあなたの頭、そのてっぺんで渦巻いていたつむじ、それを中心にして左右にしっかりと伸びていた耳を見詰めながら、私は確かにそれを感じていたのです。
こんな、馬鹿馬鹿しいけれど愛おしいあなたから、私はきっと離れることができない。そんな予感が、あなたのつむじと同じ様に、私のなかにとぐろを巻いて居座っていたのです。

けれども、芦田くん。私は、自分の苗字が『芦田』に変わることを、この六年半、何度望んで苦しんだか分かりません。そうです、あの時、この部屋のトイレで、『陽性』を見付けてしまった時も、もちろん。

「赤ちゃんができたの」

私がここに座って、あっけらかんとして(あの時ほどあっけらかんを努めた瞬間はありません)そう言った時の、あなたの驚きとほんの少しの『シマッタ』という気持ちを含んだ表情。私は何度でも、この脳裏に写し出す事ができます。
いいえ。もちろん、責めてはいないのですよ。当たり前です。あなたには、漫画家になるという、途方もない夢があったのですから。
それなのに、芦田くん、あなたが、『シマッタ』という気持ちを胸の奥深くに押し殺しながら、喜んだ笑顔を見せてくれた事、結婚しようと言ってくれた事、そして何よりも、漫画を諦めようとしてくれた事が、私には何よりも一番の幸せでした。

それでも、芦田くん。私のそんな幸せは、ご存知の通り、長くは続きませんでしたね。
私達の地に足を着けた現実と大切な命は、真っ赤な血液に染まって流れ出てしまいました。

ああ、芦田くん。私はあの時ほどの痛みを、これからも知る事はないのでしょう。(それはもちろん、願望でしかないのですが)そうしてまた、あの時ほど、自分を恨むような事もないのでしょう。
そうして、芦田くん。私は気が付いてしまったのです。その日の夜から、あなたの耳に、私の愛して止まないあなたの耳に、金色のピアスが光り始めていた事を。
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