B級彼女とS級彼氏
 ◇◆◇

 若くして結婚した両親とまだ幼かった私は、以前は大きな山に囲まれた田舎に住んでいた。母が小さい頃、病気で急死した母の兄に代わって芳野の姓を絶やすまいと家業である農家を継ぐ為に父が婿養子として芳野の家に婿入りした。
 その頃の日本は高度経済成長期の真っ只中で、世の景気が上昇を続けていた一方農業は衰退の一途を辿っていた。決して楽な暮らしでは無かったがつつましやかなれど食べるものには困らず雨露もしのげる今の生活(くらし)に満足し、毎日を幸せに過ごしていた。
 しかし、その幸せな日々はある日突然訪れた訪問者によって、徐々に崩れ始めて行った。
 髪をべっとりとした整髪料で塗り固め、見るからに高級そうなスーツをパリッと着こなし、黒の四角いアタッシュケースを握り締めたその男性は、人の良さそうな顔でにっこりと微笑んだ。人の良い母は何の疑いも無くその客人を招き入れるとお茶を出し、父は額の汗を拭っていた手ぬぐいを首に巻いてその男性の話に聞き入った。
 まるで夢のような話を次から次へと繰り出すその男性に、人を疑うと言う事を知らない両親はどんどん引き込まれていった。

「お父さん! いいお話じゃない?」
「あ、ああ、こりゃ凄いな……」

 先物取引です――。
 と、一点の曇りも無い笑顔を浮かべ、男性はそう言った。黒縁眼鏡の奥に潜んでいるその男性の企みに気付かぬまま、これで歩を大学に行かせてやれると両手をあげ喜び勇んで父は判を押したのだった。

 そして、その男性の言った通りに、とんとん拍子に事が進んだ。
 普段はジャージとエプロンだった母が、ふわふわとしたスカートを穿き化粧も次第に派手になった。父は白物家電を買い漁り、週末は賭博をしたり他人に食事を奢ってあげたりと豪遊三昧の生活に様変わりした。
 いつも早朝から田畑に出て、米や作物の成長を己の時間を惜しむことなく見守り続けてきた両親が、一度、甘い汁を吸ってしまった事でいつしか田畑は荒れ野原になっていた。
 収穫を目の前にして枯渇してしまった田んぼに、刈られる事なく萎(しお)れた稲。熟れ過ぎてしまった果物はそこら中で異臭を放ち、近くを通る度に鼻を押さえなければ呼吸もままならない。今までは見たことも無かったその惨状に、私は幼いながらも違和感を覚えた。
 あれほど丹精込めて田畑を耕してきたあの真面目を絵に描いた様な両親。一体、何がこれほどまでに人を変えてしまったのだろう。

 ――全ては“金(かね)”と言う魔物に獲り憑かれてしまったが為に起こってしまった事であった。

 人は一度、贅沢と言うものを味わってしまうと、そこから生活レベルを下げるなんて事は容易に出来る事では無い。現状維持しようと思うどころか更に上を目指そうとする。
 あの黒縁眼鏡の男性もそれを熟知しているのか、頻繁に家に訪れてはまるで煽り立てるような言葉を並べ立て、両親はそれに一喜一憂していた。

 そんな奇妙な状況が数か月続いてた。ふと、最近黒縁眼鏡の男性をとんと見かけなくなったなと気付いた時には、既に両親から笑みが消えていた。普段は喧嘩などしない仲の良い両親が私が寝床に入った途端、大声で何やら揉めているのを度々耳にすることもあった。既に中学生になっていた思春期真っ只中の私は聞くに堪えず、布団の中にうずくまると両手で耳を塞いで二人の怒号が止むのをひたすら我慢していた。

 そして私が中学三年生の冬。悲劇は突然やってきた。

「ただいまー、……?」

 学校から帰るとそこはもぬけの殻。きっと二人して何処かへ出かけているのだなと思った私は、その事を特に気にも留めず宿題をしながら両親の帰りを待っていた。
 だが、夜の九時になっても十時になっても帰らない事に不安になり、ありえないとは思いつつも私は家の中をくまなく探した。
 家中の扉と言う扉を片っ端から開けていく。田舎の家だから建物は古いが面積はある。全ての扉を開けてもやはり両親の姿は確認できず、考えすぎたかと私は一旦炬燵に入った。炬燵の上にあったみかんで空腹を紛らわすも、十分と持たずに腹の虫がグーッと鳴る。

「どこ行ってんだろ」

 はぁーっと天板に顎を置き、目を瞑りながらある事を思い出した。

「納屋……見てなかったな」

 自然とざわつく心を落ち着かせるように、右手で心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。上着も羽織らずに部屋着のまま、私は納屋の重い引き戸をゆっくりと開けた。電気の配線をしていない納屋は当然暗く、中の様子はうかがい知れない。入り口付近に置いてある筈の懐中電灯を手探りで探し、私はゴクリと唾を飲み込んでそのスイッチを入れた。

「――。……っ!!」

 明かりを少し上に向けた先には、苦しそうな表情をして宙に浮いている父と母がいた。


 ◇◆◇

「かなり大損したらしいわよ」
「先物取引だっけ? 田舎もんだからっていい様に言いくるめられたんだろうねぇ」
「あんなに真面目な夫婦だったのに。近頃は田んぼも放ったらかしで昔の面影なんてこれっぽっちも見えなくてさぁ」

 聞きたくもない会話があちらこちらでなされている。田舎の葬式は自宅で行うものなのだが、それも良し悪しだと言われる所以が今回良くわかった。
 近所の人がここぞとばかりに集まり、まるで世間話の延長の様に故人を悼しむどころか、冒涜とも取れる言葉を次々と発する。すぐ側に私と言う遺族がいるのも忘れ、こんな僻地にある田舎に降って湧いたスキャンダル紛いの出来事に、心なしか興奮している様な感じにも見て取れた。

「保険金、結構な額掛けてたらしいよ? それでチャラにしようと思ったんだろうけど、結局自殺じゃ保険金おりないんだってさ」
「うわぁー、それって死に損じゃないの!」
「……」

 人の死に、損とか得とかってあるのだろうか。
 その言葉を聞いて冷静を保っていた私の顔が徐々に歪み始める。二つ並べられた棺の前で正座をし、太腿に置いた私の手が制服のスカートをギュッと掴んだ。

 “死ぬ”って一体何なんだろう? 人が“生きる”意味は何だろう?
 どんなに辛い世の中だとしても、死んで正解なんて答えは絶対存在しないはずだ。

「――」

 私はこの時から死について深く考える様になった。そして、その事によってはじき出された答えが、これからの自分の歩むべき人生を決定づけるものとなった。

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