博士と秘書のやさしい恋の始め方
あの日――先生は、私と話せなくて「淋しかった」と言ってくれた。

田中先生からそんな言葉が聞けるなんて、嬉しいと同時にかなり驚いた。

だって、先生はひとりでいるのが平気なタイプというか。

むしろ、ひとりの時間を大事にしたいタイプというか。

真鍋さんのように「恋愛したい、恋愛したい!」と欲している感じには見えないし(真鍋さんは求めすぎという話もあるけど)。

だからこそ「淋しい」という台詞はとても意外で、それだけに私をいっそうキュンとさせた。

ところで、私がしばらく先生を避けていたことについて、先生は何の指摘も追及もしてはこなかったけど。

私が思うほど先生は気には留めていなかったのかな? 

それとも――今思うと、私と話せなくて淋しかったというのは、ひょっとして“私に避けられていて”淋しかったという意味だった? 

わ、わからない……。

私としては恥ずかしい誤解について話さずにすんでほっとひと安心だけど、ちょっと気になる。

「あのさあ。もしかしたら田中先生、自分からは“付き合って”って言いにくいのかもしれないよ?」

美緒は「あくまでも私の推測だけどね」と付け加えると、紙パック容器をつぶしながらコーヒー牛乳を飲みきった。

「だってさ、付き合ったとして結婚とかになったら沙理が異動しなきゃじゃん」

事務方同士の職場結婚であればどちらかが異動すれば問題ない。

でも、研究員となると話は違う。

研究員の先生方は自分の専門性をいかせるラボで仕事をしないと意味がないわけで。

田中先生がいきなり機械工学系のラボへ配属になるなんてあり得ないから。

そもそも――田中先生はラボ内恋愛(?)についてどんな考えをもっているのだろう? 

結婚ともなれば異動の問題も出てくるけど、とりあえず恋愛は自由だ。

社会人になればどうしたって仕事で時間を拘束される。

出会いの機会もおのずと限られる。

職場って一日のおよそ三分の一をすごす場所で、ある意味苦楽をともにする場所だもの。

そこで恋が芽生えても不思議じゃない。

職場恋愛って珍しくないごくごく普通のことだと思う。

美緒だって新里さんとは職場恋愛だし。

私だって……“恋愛”といってよいのか少し迷うけど、遊佐先生と出会ったのは職場だった。

「田中先生のことが好きならさ、沙理のほうから言ったらいいじゃん。“つきあってください”って」

「そんな……簡単に言わないでよ」

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