博士と秘書のやさしい恋の始め方
「とりあえず、オフィスラブってやつを満喫すれば? せっかくのご縁なんだからさ。あ、職場をおわれるようなことがないように気をつけなよ」

「なんだよそれ」

「言っておくけど、会議室は会議をするための部屋なんだからね。会議以外の使用目的で秘書さんを連れ込んだりしちゃダメなんだからね」

こいつ……。

しかしながら、周の言うことは正論だ。

会議室は会議をするための部屋。

備品庫は――備品を保管しておくための倉庫だ。

脳裏によぎったのは、もちろんあの日のことだった。

彼女の表情が今も心に焼き付いている。

苦しげに不安げに悲しく揺れる瞳に、どうしようもない衝動に駆られた。

この人を悲しませてはいけない、傷つけてはいけない。

悲しませたくない、傷つけたくない。

彼女のことを――守りたい。

他の誰にも任せることなんてできやしない。

譲れない、渡せない。

できることなら、俺が――俺自身が彼女を支え、守りたい。

おこがましくも、そのような気持ちでいっぱいだった。

今思えば、かなり感情的になっていた気もする。

しかしながら、彼女に対する想いが一時の刹那的な感情でないという認識はあった。

だから、抱きしめた。

無論、職場であのようなことが容認されるわけはないのだが……。

それにしても、周はどうにもこうにも煮ても焼いても食えない男だ。

「ずいぶんと言いたい放題だな。稽古のとき、覚悟しておけよ」

「怖い怖い。って、そろそろ時間だね。着替えはあちらでするとして、もう出たほうがいいかな」

「そうだな」

こうしてここへ来たのは、周と無駄話をするためではない。

神社の敷地内にある武道場に用があったからだ。

本当は朝からラボへ行って昨夜の作業の続きをしたかったのだが。

それでも、子どもの頃から世話になってる先生からの頼みごととあらば義理を果たさぬわけにもいかず……。

ラボへ出られるのは稽古が終わる夕方前くらいになりそう、か。

せっかくの土曜の休日、山下さんは――彼女は今頃、何をしているのだろう? 

本人が言っていたとおり、昼過ぎまで寝てだらだら過ごしているのだろうか? 

ラボでしゃきしゃき働く姿からは想像できないような彼女の日常。

思い描くと微笑ましくておもしろくて、だらしなく頬が緩んでしまう。

いかん……こんな締りのないアホづらを周に見られたらまた面倒だ。

「ほら、ぐずぐずしていると遅れるぞ」

俺はまるで周を振り切るように早足で武道場へ向かった。

頭の片隅で、彼女と過ごす明日の休日を想いながら。





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