博士と秘書のやさしい恋の始め方
わざと恩着せがましい言い方をした。

無論、もとより誰にも言う気はなかったが。

言う気はないというより、言いたくないというか……。

今夜のことを誰かに話してしまうのは、なんだかもったいない気がした。

「田中先生に借りができてしまった気がします……」

「貸しひとつ、でしょうか」

むすっと拗ねる山下さんがおもしろくて、ついつい意地悪したくなる。

この時間がもう少し続いてくれたら、と。ちょうどそんな風に思ったときだった。

「あっ、なんか鳴ってますね」

「そうですね……」

作業の初めに仕込みをしておいた機械が、培養が終わったことをけたたましい音で知らせてきた。

「あの……私、そろそろ帰ります」

「そうですか。それじゃあ下まで送りますよ」

「そんなっ、大丈夫ですから。先生はどうぞ作業を続けてください」

山下さんは先ほどタイマーの鳴った機械を気にしながら、俺の申し出を断った。

本当なら車で送ってあげたいところだが、作業を終えた機械をそのまま放置して帰るわけにもいかず……。

まったく、俺のタイミングの悪さといったらない。

「ちょうど一服したいと思っていたので。作業はまだちょっとかかりそうですし」

「そうなんですね。それなら、下まで一緒に」

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