博士と秘書のやさしい恋の始め方
山下さんはにっこり笑うと「そうだ、これをお返ししないと」と、もそもそ白衣を脱ぎ始めた。

そうして今度は俺の後ろへまわり「どうぞ」と言って、袖を通すようにと促した。

「これは、どうも……」

お言葉に甘えてみるも、いやはやなんとも。

彼女には俺の大きな白衣はどうにも扱いづらそうで。

こう言っては失礼だが、もたもたするその様子はまるで一生懸命にお手伝いする子どものようだった。

“できる秘書”っぽくないぎこちなさが、なんだか妙に微笑ましい。

この楽しさはなんだろう。この寛いだ気持ちはなんだろう。

山下さんといると、本当に飽きることがない。

居室に寄って彼女の荷物を取ってから、ふたりで一緒に下へ降りた。

エレベーターの中で、山下さんは「そういえば……」と俺にたずねた。

「先生はいつも一階の外にある喫煙コーナーまで行かれるんですか?」

「いや、いつもは4階の喫煙室ですが」

「じゃあ、4階まで探しに行けば大丈夫そうですね」

「え?」

いったいなんの話だろうか?

「田中先生の捜索範囲です」

「捜索、ですか?」

「たまーにですが、緊急の用件で電話がきたときに限って先生が行方不明という事態が起こるので。捜索する側としてはあたりがつけられないと困るんです」

「なるほど……」

なんとも耳の痛い話だ。

喫煙の為に席を外して、煙草を吸いながらちょっとスマホをいじっているうちに気がつくと……。

もっとも、前の秘書がわざわざ俺を探しにくるようなことはなかったが。

ともあれ、嫌煙家からすれば仕事中の喫煙そのものがサボりのようなもの。

速やかに仕事に戻らないとは言語道断に違いない。

しかしながら――。

「追っ手からは逃れられないと思って、覚悟なさってくださいね」

「さながら刺客ですね」

「ターゲットは必ず捕らえます」

必死になって俺を探す山下さんに確保されるのも悪くない。

こんなことを考えてしまう自分は、本当にどうかしていると思う。

俺はやっぱり相当疲れているに違いない。
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