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第一章 月明かりのしたで

夜の屋上に現れたのは・・・

今夜は雲がなく、夜空には月が綺麗に輝いている。

美桜《みお》は、缶ビールと、おつまみを持って、アパートの屋上へつながる階段を登っていた。

春分の日が過ぎて、ようやく春の陽気が感じられるようになり、月が綺麗な夜に、月光浴をする美桜は、春の訪れを心待ちにしていた。

重い鉄の扉を開け、南側の公園が見渡せる、いつもの定位置へ向かう。

外は、少し肌寒く、美桜は、肩にかけていたストールを、ぐるぐると首に巻き付けた。

美桜の住むアパートは5階建てで、それほど高い建物ではないが、アパートの南側が緑に溢れた大きな公園に隣接していることと、近くに高い建物がないため、屋上からの見晴らしがよいのである。

また、屋上には、大家の計らいにより、テーブル、椅子やベンチがおいてあり、住人たちが出入りできるようになっている。

美桜は、この屋上の開放感と雰囲気が気に入り、このアパートへ入居することに決めた。

美桜は、お気に入りのベンチに腰をかけ、缶ビールのプルタブに指をかけた。

ビールの苦味と、炭酸ののどごしを味わう。今日のおつまみは、ゆでたての菜の花である。特に何かで味をつけるわけでもなく、菜の花の持つほろ苦さが、ビールに良く合った。

夜空へ目を向けると、綺麗な月が、輝いていた。

今夜の月は、猫の目のような形をしている。綺麗な月を眺め、そして大好きなビールを飲み、存分にこの心地よい時間を堪能していた。

美桜にとって、月光浴は、ご褒美である。

仕事を頑張った自分を労るために、こうして好きなことをして、自分にご褒美をあげ、次の仕事への原動力としていた。

美桜は、翻訳の仕事している。
元々は、公立系病院の看護師として働いていたが、内職でしていた医療系文章の翻訳の出来が評判となり、4年前から翻訳業で、稼ぐようになった。

昨年までは、産業翻訳者の元で働いていたが、今は独立をして、フリーとして頑張っている。
医療系雑誌や論文、ビジネス文書の翻訳が、大半を占めているが、最近は、絵本や児童文学の翻訳の依頼も来るようになってきた。
看護師の仕事は、やりがいがあり、辞めることに躊躇したが、こうして翻訳の依頼がある現状に、感謝していた。


今日は、2週間かけた翻訳作業が終わり、精神的に解放されたこともあり、こうして自分にご褒美をあげることにした。

1本目の缶ビールを飲み干し、2本目に、口をつけたとき、屋上の扉が、開く音が聞こえた。

屋上で、他の住人と出くわしたことのない美桜は、珍しいこともあるなぁと思い、ドアの方へおそるおそる目を向けた。

ドアの向こうには、長身の男性が立っていた。
男性は、先客としている美桜に驚いているように見えた。

彼は、美桜に軽く頭を下げながら、ドアの近くに置いてある椅子に腰掛けた。

美桜も、軽く頭を下げ、急いで男性から視線を逸らした。
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