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第二章 逃げだした私

臆病な私

春の夕陽が、差し込むリビングの一角で、美桜《みお》は依頼された翻訳原稿に向き合っていた。

使い古した愛用の英和辞典を活用しながら、和訳をキーボードに打ち込む。

窓の外に目をやると、公園の木々が、朱く照らされている。夕刻の空は、マジックアワーを迎えようとしていた。


赤く染まった空に、17時を知らせるドボルザークの家路のメロディが響き出した。

美桜は、両手を天井に向けて伸ばし、首や肩のコリが、ほぐれるように軽くストレッチをした。

文章作成ソフトの、保存ボタンをクリックする。
メールボックスを開き、急ぎの返事は求められていない事を確認し、パソコンの電源を落とした。

デスクから離れ、英和辞典や、今日の作業で使った資料を、本棚の所定の位置に戻していく。
リビングダイニングの西側の壁面は、美桜の背丈よりも高い本棚がレイアウトされていた。

本棚には仕事に必要な資料や洋書、他には漫画や文庫本など、多様な本たちが、隙間なく収まっている。

リビングを横切り、対面式のキッチンに入ると、美桜は、琺瑯のケトルに水を入れ、ベランダに出た。

マジックアワーは、いつの間にか終わりを迎えようとしていた。
ベランダには数少ないが、美桜が育てている植物たちが並んでいる。彼らに水を注いでいく。

2本のオリーブの木は、風で、わさわさと枝を揺らしていた。

洗濯物に手をかけると、公園から子どもたちの声がちらほら聞こえてくる。相手の顔が見えなくなるまで遊ぶのだろうか。
ベランダの手すりにもたれかけ、公園を見渡す。

桜の木はまだ、淡いピンクに染められていない。
満開までは、数日かかるだろう。3月に入っても、寒い日が多かったが、ここ数日は、陽気な気候が続いていた。

太陽は、半分以上沈み、東の空は、すでに夜が始まっている。

今夜、彼は屋上に来るのだろうか?

美桜は、あの日から1週間以上経つが、屋上へ足を運んでいなかった。仕事に追われていることを口実に、部屋に引きこもっている。

彼が美桜に預けたカーディガンは、玄関のコート掛けに、寂しくぶら下がっている。それを見る度に、屋上へ行かなければと思ったが、実行できずに日々が過ぎ去っている。

今夜は暖かく、月を見るには絶好の機会になるだろう。

誰かを好きになったり、心がときめいたりする事がご無沙汰の美桜は、もう一度彼と会って、あの夜のように心がざわめいてしまうことが怖かった。

好きなったわけでもないのに、こんなにも臆病になっている自分が情けないとは思うが、恐怖心の方が強い現段階では、しばらく屋上に行けそうにはないと、半分開き直っていた。

部屋に戻り、洗濯物を畳み、それらをあるべき場所へ戻していく。
キッチンに立ち、エプロンを着け、冷蔵庫を開ける。
今晩は、友人と夕飯を一緒に食べる約束をしている
ワイン好きの友人は、和食と魚料理をリクエストしてきた。

菜の花と玉子のすまし汁を作るべく、美桜は、鍋に水を入れ、コンロにかけた。
おひたしなどの副菜は、既に作ってあり、あとは、メインの魚を焼くことと、あさりの酒蒸しを作るだけであった。

スマートフォンをタップすると友人からメールが来ていた。

約束の時間に間に合う事を伝える内容だった。
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