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大好きだった人

藍子《あいこ》は、ワイングラスを傾けながら、最後のいちご一粒に、手を伸ばした。

美桜《みお》は、食器洗いで濡れた手を、タオルでぬぐい、空になりそうな藍子のワイングラスに、ルビー色のワインを注いだ。

「洗い物ありがとね」
「いえいえ。藍子さん、チョコレートもありますけど、食べます?」
「食べる~!!」

藍子との女子会が始まり、あっという間に2時間がたとうとしている。
藍子が待ってきた白ワインのボトルは空となり、今は2本目の赤ワインを飲んでいる。
毎回のことだが、酒好きの二人で飲み出すとワインボトルが2~3本空く。

気を許した相手との家飲みは、外で飲むよりも、酒を飲むペースを加速させる。

この日のために買ったヴィタメールの純生ショコラを、皿に盛り付け、藍子の前においた。

藍子はショコラを口に運び、口溶けの良さに目尻を下げた。

「美味しい~!ここのショコラ大好き!さすが美桜ちん、私の好みを心得てるね!」
「私も大好きです、ここのショコラ。藍子さんも好きでしたもんね」
「うん、大好き~!今度、職場に持ち込も!!」

満面の笑みで藍子は、ショコラの後味を堪能している。と思いきや、急に真顔になった。

「・・・そういえば、あいつ異動になったよー」

藍子はワイングラスをまわし、中で渦を巻く赤褐色の液体を怖い顔で睨んでいる。

「・・・あいつって?」
「アーイーツー!!美桜ちんを大切にせずに、ちょっと若くて、しおらしい女にチヤホヤされて、二股してたバカ大本《おおもと》よ!」

「あー・・・、大本先生・・・」
「そう!大本!!毎日、あいつの顔見る度に、ムカムカして、胸糞悪かったんだから!誠実そうに見えて、二股してたとか最低じゃん!オペの最中でさえ、あいつの顔が視界に入ると、イライラしちゃうし!居なくなって本当に清々する!」

大本への憎悪の言葉を早口で捲し立て、藍子は、赤ワインを勢い良く飲み乾《ほ》した。

相変わらず藍子にとって大本は、親友の美桜を傷つけた悪者として認識されているようだ。

「美桜ちんが、看護師辞めたのって、あいつとのことも一因でしょ。ぐー!!本当にムカつく!もっと早くに異動してほしかったわ!」
「大本先生かぁ。・・・懐かしいですねぇ」

興奮する藍子をよそに、美桜は力なく微笑んだ。

久々に出てきた元カレの名前に、驚きはしたものの、別れてから4年近くたっており、懐かしいという感情以外は、湧き上がってこなかった。

かつて看護師として働いていた病院の外科に、大学の医局人事で配属されたのが、大本であった。

大本は、人当たりがよく、医者らしい威張った風情がない人柄で、あっという間に看護師をだけでなく、患者からも人気を獲得した。また、オペの腕も良く、彼に診てもらいたいと、患者が集まるほどであった。

外科病棟に配属されていた美桜は、大本の働く姿勢に好感を持ってはいたものの、医者と付き合うことは畏れ多く、一緒に働けるだけで満足だった。

しかし、ふたりの関係は病棟の飲み会で言葉を交わした事をきっかけに変化した。

飲み会後から大本に熱烈にアプローチをされ、それに美桜が折れる形で付き合い出した。

「懐かしいって・・・。それだけー!?」
「んー、そうですね。藍子さんから名前聞くまで忘れてましたし。久々に思い出しました」

「はぁ。美桜ちん、あんなに嫌な思いしたのに、忘れてたって、すごいね・・・」

美桜は立ち上がり、キッチンの棚からドライフルーツが入った袋を取り出し、中身を小皿に盛る。

それを持ち、ダイニングに戻ると、藍子が美桜を睨んでいた。

「藍子さん・・・顔怖いですよ。確かに嫌な思いしましたけど、今更、何とも思わないですよ」

「私だったら、絶対許さないね!大本もだけど、相手の女も腹立たしい!んでもやっぱ、大本が一番ムカつく!美桜ちん病院辞めてから、番号変えたでしょ。何度も教えてくれってうるさくてさ。二股しといて、どの口が言うかって感じよ!あれでオペが下手で、部長のお気に入りじゃなけりゃ、ただのクズ男よ!」

美桜は、小皿からドライいちじくを手に取り、口へ運ぶ。

大本の顔を思い浮かべようとするも、砂嵐の中に彼がおり、あやふやにしか思い描けない。

そんな砂嵐ように視界の悪い記憶の断片にも関わらず、彼が二股していたと言われている相手の女の顔は、くっきりと鮮やかに思い出すことができた。

いかにも守ってあげなければという雰囲気を醸す女性だった。

恋の終わりと同時に、何重にも鍵をかけ、忘れ去ったと思い込んでいた、苦くて切ない恋の思い出が、美桜の脳内を占領した。


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