世界で一番好きな人
その時、病院の廊下を走る、革靴の音が近付いてきた。
まさか、と思う。
まだ、コンサートは終わったばかりだ。
掛川さんは、その後、報道陣に囲まれているだろうに―――



「瞳子!!!!」



だから、私の目に全力で走ってくる掛川さんが見えたとき。
そして、私の名前を呼び捨てで、大きな声で呼んだとき。
胸がぎゅっと掴まれたみたいに、苦しくなって―――


掛川さんは、ワンピースでベッドに腰掛ける私を見て、心からほっとした顔をした。
そして、崩れるように私の足元にひざまづいた。



「ごめんなさい、掛川さん……。」


「やっぱり、やっぱり私は……瞳子さん、」


「大丈夫です。」


「ピアノなんか、弾かなければよかった。」



私の手を握って、ひたすらにうなだれる掛川さんに、私はかける言葉を必死に探していた。
だけどもう、掛川さんに伝えたいことは、ひとつしかない。

もう、掛川さんにどう思われてもいい。
だから―――



「掛川さん、私は大丈夫。私は奥さんとは違います。……私は絶対に、掛川さんより先に死んだりしません。絶対に、死んだりしません!!!」


「瞳子さん……。」


「私が約束できるのは、それだけです。私にできることは、そんなにないかもしれないけど、でも、私はずっとずっと、あなたを、薫ちゃんを愛し続けます。」



そのとき。
掛川さんは、私を思い切り抱きしめた。

今日のために新調した、掛川さんの黒の燕尾服が。
私の涙で濡れてしまうのも、構わずに。



「愛しています、瞳子さん。」


「……え?」



掛川さんの口から、これまでもこれからも、決して聞くことはないと思った言葉が聞こえた。



「愛してる。愛してる。……愛してる、瞳子。」



私の耳元で、何度も囁く掛川さん。
私は、夢を見ているようにぼうっとしていた。



「私はもう、誰かを愛することはないと思っていました。でも、……私は今、確かにあなたを愛している。」


「掛川さん……。」


「あなたを失うことが、いつの間にかこんなにも怖くなっていた。」


「掛川さん、」


「コンサートの最中、どれほど私は、ホールを抜け出してあなたの顔を見たかったことでしょう。……演奏中、私はずっと鍵盤を見ていませんでした。……祈っていたんです。あなたが無事であるように。もう一度チャンスが欲しいと。……あなたにこの愛を、伝えるチャンスが欲しいと。」



涙があふれて止まらない。
掛川さんの言葉は、私の全身を震わせる。
言い様のない嬉しさが、細胞のひとつひとつに染み渡って行くみたいで。

すると、掛川さんは私を腕の中から解放して、言った。



「一緒に暮らさないか?瞳子。」


「えっ、」


「ずっとずっと、いつまでも一緒に暮らさないか?」


「いいの?」


「いいよ。」



見上げた掛川さんの顔が、いたずらっ子のようにくすり、と笑う。



「薫の要望でもあるんだ。……なっ?」



掛川さんが顔を覗き込むと、薫ちゃんは恥ずかしそうに頷いた。



「瞳子さんと、ずっと一緒にいたい。瞳子さんが、お母さんだったらいいのに。」


「だ、そうです。」



優しい夕陽が、真っ白な病室に満ちている。
私の心も、これ以上ないくらいに満たされている。

この親子は、私に幸せをくれる。
もう、数えきれないくらいもらったのに、まだくれるの?

私たち、家族になってもいいの―――?



「さあ、帰ろう。私の家は、あなたの家です。」



掛川さんは私の手を取った。
まだ少しふらつきの残る私とともに、ゆっくりと歩いてくれる。
そして、私のもう片方の手を、薫ちゃんがぎゅっと握る。

この日のことを、私は一生忘れないだろうな、と思った。
忘れたくない、とも思った。



「雪人さんのこと、私……、世界で一番大好きです。」



口をついで出た、そんな陳腐な言葉にも。
掛川さんは、とろけそうに優しい笑顔を返してくれる。



「それなら私たちは、世界で一番素敵な家族ですね。」



掛川さんが、家族と認めてくれた。
私は、込み上げる嬉し涙を必死に堪えながら、精一杯微笑んだ。

そして、左手の大きな温もりと、右手の小さな温もりを。

ぎゅっと握り返した―――








"「私は過去を生きている。でも君は、未来を生きているんだ。」"


その言葉は、正しいのかもしれない。

でも―――

私の目の前に、あなたがいるなら。

それは、もう仕方のないことです。


ねえ、私を見て。

過去ではなく、今に生きて。

そして、連れていってください。

あなたの紡ぐ世界の中に、どこまでも。


そう、あなたは世界で一番素敵な人だから。









――「世界で一番好きな人」*Fin.**――
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