獣は小鳥に恋をする





澪は席にもつかず、椅子に手をかけたままただ呆然とする。



始めは空耳かと思った。



けれど



昨日、一度だけ聞いた葵の声は今でも耳に残っている。



さっきの声は確かに彼の、葵の声。



「っ!!!」



それを自覚した瞬間、澪の心に震えが走った。



たまらない嬉しさで胸がいっぱいになる。



そう



ずっと人を嫌っていた子が自らこちらに歩み寄ってくれた時の何とも言えない胸をじんわりと締め付けるような



感動なのか努力が報われたことへの達成感なのか



むしろそう言ったものがすべて一気に押し寄せてきた感じ。



「おはようっ」



思わずもう一度声をかけてしまう。



さすがにもう返してくれはなかった。でも澪の心は温かいまま。



自然と溢れ出る笑みを隠せずに口元を手で隠しながら席に着く。



「あんた...何ニヤニヤしてんのよ」



「あ菫ちゃん、ふふっ内緒っ」



菫が澪の席へとやって来て早々にそんな事を突っ込む。



別に自分がどんな顔をしてようがどうでもよかった。



今はこの幸せをただ噛みしめていたかった。



「おーい、ホームルームはじめっぞー、席つけー」



椎名の掛け声とともに菫は自分の席へと戻っていく。



椎名の面倒くさそうな声が淡々と連絡事項を告げている中、澪はふと隣を見た。



すると



ぱちっ



思いがけず、葵と目が合った。



彼の真っ黒な瞳が、長い前髪の隙間からそっと澪を見ていたのだ。



もうこちらを見てはいないが髪の隙間から覗く耳がほんのり赤く染まっている。



それを目にして澪も負けじと顔をゆでだこのように真っ赤にさせた。







ほんのわずかでも声が聞けたり



たった一言、挨拶を返してくれたり



一瞬、目が合ったり



そんな、他の人にとってみたらあまりにも小さなことが、こんなにも人の心を満たしてくれる



飛んで踊りだしそうなほど嬉しいと思わせてくれる



それは他の誰でもない葵とだから



きっとこれが《恋》なんだろう



けれど馬鹿な私はまだそれに気づく事は無い。



じわりと広がる甘い胸の痛みを感じて



澪はそっとその目を閉じる。



二人の恋が叶うのはまだまだ先の、けれど遠くない未来



今はただ正体の分からない甘い痛みに身を委ねるだけだった




***




end
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