蒼い雨に濡れながら
第一章 プロローグ
青いガラスの瓶(びん)がある。10㎝程の高さの丸みを帯びた広口瓶で、白い蓋が閉まっている。暗く沈んだ青い文様が、瓶の口元から底に向かって引きずられるように広がっていて、その足掻いているような青い絵が、少しずつ透明感を取り戻し、すっかり色をなくした所が瓶の底である。其処には3㎝程の灰色に焦げた小さな塊が無造作に置かれている。それは灰になり切れずに燃え残った脆(もろ)い木炭のような印象だ。乾燥し切っていて、瓶を強く振れば簡単に崩れてしまいそうに危(あや)うかった。
小島美樹はその瓶を両手で包み込むように持った。ひんやりと冷たい。美樹は瓶を目の前にかざした。瓶の上に美樹の顔が映っている。まるで頬を両手で思いっきり引っ張ったような間の抜けた顔だ。
「バァァ」突然、美樹が瓶に映った顔に向かって大口を開けた。瓶に映った美樹も、すかさず大きく口を開けて、「バァァ」と言い返す。美樹は自分の顔に向かって笑いかけた。瓶に映った美樹もにやりと笑い返す。美樹は冷たい瓶を暖めるように、両手でしっかりと持った。その右手には細い金色のリングが光っている。美樹は瓶に頬ずりをした。冷たい感触の中に懐かしい想いが蘇ってくる。無機質の冷たい懐かしさだ。
「健ちゃん」美樹は瓶の中の健一に呼び掛けた。
美樹は頬ずりをしながら微笑んだ。そして、微笑みながら泣いていた。美樹は瓶を更に強く頬に押し付けた。自分の体温で、冷たい瓶が少しでも暖かくならないかと願ったのだ。その自分のぬくもりが小さくなった健一に届けと願ったのだ。
「だって寒そうじゃない。冷たそうじゃない」美樹はそう言いながら、涙に濡れた目でもう一度瓶を見た。

「行くよ」って言うから「どうぞ」って言ってやったんだ。だって笑いながら言うんだもの。どう思う?ねえ、どう思う?笑いながら言ったんだよ。
彼はそう言った後、突然私にキスをした。あの人は私の頬を両手でそっと包んで優しく唇を重ねた。そして、急に私の身体を壊れる位にきつく抱きしめた。何も知らない私は、彼の抱擁に酔った。こうして彼の腕に抱かれている自分に、幸せを感じていたんだ。能天気もいいとこだよね。
「バイバイ」健一はきっと心の中でそう言っていたに違いない。自分の胸を私の胸に痛い位にきつく押し付けて、直接心を伝えようとしたんだ。そして、「バイバイ」そう言ったんだ。
バカヤロウ。健一のオオバカヤロウ。死ぬなら死ぬって言ってくれたらよかったのに。そしたら私も付き合ってあげたんだ。独りでこんなに小さくなっちゃって。
アハハハ。食べちゃおうか?カリカリって食べちゃおうか?どんな味がするんだろう?ねぇ、教えてよ。どんな味なのさ。ねぇ、あんた。人食って生きてるみたいな顔してんじゃない。教えてよ。弱虫で競争に負けてばかりいる人間の味ってどんな味なのさ。

美樹はポツンと窓際の机に座っている。窓には濃淡の縞模様があるレモン色の遮光カーテンが引いてある。それが美樹と外界をピシャリと遮断している。机の隅に買ってきたばかりの20パック入りのCDが置かれている。美樹は両手で暖めていた瓶をその上に乗せた。そして、頬杖を付いて瓶を眺め始めた。瓶の上に再び間延びした美樹の顔が映る。「これは私のお墓だ。私と健一の青春という名のお墓だ」美樹はそう呟きながら、人差し指で瓶を軽く弾いた。思いがけずピンと澄んだ音がした。美樹は瓶に自分の顔を寄せた。瓶に映った美樹の顔が更に間延びした。美樹は瓶から急に顔を離した。すると間延びした顔が、しゅっと元に戻る。美樹が顔を動かす度に美樹の顔は、瓶の上で広がっては縮み、縮んではまた広がった。そんな美樹の顔が奇妙に広がったまま薄く笑った。
幸せだった。私は幸せだった。でも健ちゃんはどうだったのだろう?ふっと暗い顔をする時があった。ふっと寂しそうな顔をする時があった。ふっと遠くを見つめているような時があった。私はそんな彼を見る時に、何時も思っていたんだ。彼は一体何を見ているんだろう?ってね。暗く沈んだ何処か焦点の定まらない彼の目は、一体何を見ていたのだろう?淀(よど)みのような人生に、のた打ち回っている自分の生き様だったのだろうか?順調に人生の階段を上っていく級友達の姿への、掻き毟(むし)るような羨望だったのだろうか。それとも、どうしようもない自分への冷めた諦念だったのだろうか。そんな彼の目は、最後に、何を見たのだろう?何を見たら、笑って、「バイバイ」なんて言えるのだろう?
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