蒼い雨に濡れながら
第二章 春に

(一)

「兄ちゃん、立命館大学なら文句はなかろう」父親の俊(しゅん)太郎(たろう)が一言、一言を区切るように言った。横に座っている母親の佳子(けいこ)がその言葉に頷いている。座敷の中央には重量感のある木製の座卓が置かれている。巨大な樹から切り出されたに違いない座卓はそこにあるだけで、ずっしりとした存在感に溢れている。その上に置かれた灰皿からは、一条の白い煙が緩やかに立ち上っていた。
俊太郎は灰皿から吸いさしのハイライトを取り上げた。そして、人差し指でポンと灰を落として咥えた。灰皿には数本の吸殻が横たわっている。その長さはまちまちで、どれもこれもが力一杯揉み消されたように捻じ曲がっている。それは俊太郎の苛立ちを如実に物語っていた。
二人の前に健一が座っている。高校を卒業した今年、健一は第一志望に京都大学を、第二志望に立命館大学を選んで受験した。その結果、立命館大学には合格したが、京都大学は不合格だった。健一は一年間浪人して、もう一度チャレンジしたいと思っている。だが、両親の考えは違う。両親は浪人をするよりも立命館大学に行けと勧めている。そんな両親を前にして、健一は顔一杯に不満を表して庭に目をやっていた。
三人の間を饒舌な沈黙が支配した。お互いに言いたいことが腹一杯あって、それをお互いが知っていて、でも、誰も何も言わない。一言口にすれば、とんでもない泥沼が口を開けそうで、言いたいことに押し潰されそうになりながら、結局は誰も言葉を発しなかった。
沈黙の中で、健一の脳裏を、「何故、京都大学なのだろう?」という言葉が何度も何度も駆け巡っていた。「何故、俺が行くべき大学は京都大学でなければならないのだ」これまでも何度も繰り返されてきた自問である。両親の考えに逆らってまで何故そこに行かなくてはならないのだろう?アカデミックな学風だと聞いた。反骨精神と素朴な無骨さがある大学だと聞いた。東京ではなく、京都。スマートで洗練された都会ではなく、日本の歴史をしたたかに生きてきた京都。そこにある大学。東大と双璧をなす日本を代表する大学。だが、だからと言ってそれが何なのだろう?結局はどんな理屈を並べても、自分がそこに固執する理由になどなりはしないのだ。健一は意固地に第一志望に固執する自分を眺めながら、ふと、頭をもたげる、俺は本当にそこに行きたいのだろうか?という思いに慌てて頭を振った。俺が行きたい大学は、京大なんだよ。そう叫びながらも、何故自分がそこに固執しているのか、と問われると、自分でもその明確な回答がないのである。だが、ひたすらそれに固執する自分がいる。ただそれだけが確かな事実だった。
外は雨が降っている。絹のように細い雨が、間断なく降り続いている。雨は窓硝子に絶え間ない涙の跡を描き出しながら、庭に咲く梅の花を濡らしている。可憐な薄紅色の花弁が、雨に打たれながら泣いているように見えた。
「もう一度言う」俊太郎がおもむろに口を開いた。「京大だけが大学じゃない。立命館で精一杯やればいいじゃないか。お父さんは大学の名前に固執する必要はないと思うがな。自分が入れた大学で、精一杯やればいいんだ。今のお前には分からないかもしれないが、浪人すればそれだけ先々で不利になる。それは確かなことなんだ。そのリスクを背負ってまで浪人する必然性はない」俊太郎は噛み締めるように言った。
健一は、父親の言葉を無視するように、そっぽを向いて外の雨を眺め続けていた。父親の顔を見ようともしない。眉間に皺が寄っている。俊太郎の表情も次第に険しくなっていく。そんな二人を佳子がじっと見つめていた。
確かに俊太郎が言うように、浪人するよりも、現役で大学に進学する方が現実的なのだろう。文系で一年間浪人すれば、就職活動では、それなりに大きなハンディとなるのは健一にも分かっていた。それだけではなく、心の片隅には現役で大学に入学したいという思いがあるのも事実だ。第一志望に固執する一方で、浪人するより、クラスメイト達と同じ様に大学生活をエンジョイする自分に憧れている自分がいるのも事実なのだ。ひょっとしたら、俺は何がなんでも第一志望を目指して浪人したいわけではないのかもしれない。頑(かたく)なな自分への疑問も沸く。それなら立命館大学に行けばいいじゃないか。そうも思う。自分でもそう思うのだ。だが、違う。やはり何かが違うのだ。立命館大学より京都大学の社会的な評価が高いからそこに行きたいのか。京大が西の頂点に位置する大学だから行きたいのか。立命館大が、有名私大の一つだから其処でいいのか。いや、違う。やっぱり何かが違うのだ。
大切なことは、どの大学に入るかではなく、入った大学で自分が何をするかということなのだろう。そういう意味では、確かに京大に固執する理由はないし、そこでなければならない理由もない。大学なんて何処でもいいはずだ。問題は其処での自分の在り方、生き様なのだから。分かっている。そんなことは分かっているんだ。でもそれだけじゃない。じゃあ、何がある?何がアンタを躊躇させるんだ。父親の話を聞きながら、漠然とした自問自答が繰り返し、繰り返し、健一の脳裏を過(よ)ぎっていた。感情と理性の狭間(はざま)で、健一は自分でも自分が京都大学というものに固執しようとする明確な根拠が分からなかった。何故立命館大学ではいけないのか。何故京都大学でなければならないのか。その答えがないのである。ただ、折り合うことは出来ない。その意識だけが健一を支配していた。
「浪人するより、立命館に入った方がいいんじゃないのか?浪人してまで京大に固執する理由が本当にあるのか?」俊太郎が畳み掛けるように言った。
だが、健一は返事をしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいのかもしれない。
「お茶持って来てやろうか?」そう言って座敷に顔を覗かせた妹の真奈美が声を掛けた。真奈美は座敷には入ってなかったが、隣の部屋で三人の会話に聞き耳を立てていた。今にも大爆発しそうな険悪な雰囲気を逸らそうとしたのだが、真奈美を見た三人の表情の険しさに一瞬たじろいだ。真奈美は、ちょっと肩を窄(すぼ)めて、目線を逸らせた健一と父を見た。「今にお父さん怒鳴り出すんじゃないかな。兄ちゃんも入った所に行けばいいのに」と真奈美は心の中で呟いた。真奈美は中学二年生で、健一とは四つ年が離れている。ただでさえ刺々しい受験本番に入ったここ数ヶ月間の締め括りが、今目の前に展開されている。この間を象徴するかのような、まさに一触即発の雰囲気だ。
「入った大学に行けと言っているじゃないか」「何故入ったら其処に行かなければならないんだ」「そのつもりなら始めから受けるな」「いいじゃないか受けたって。俺の勝手じゃないか」「落ちたくせに偉そうな顔して御託を並べるな」真奈美には、今にもそんな怒号が聞こえて来るような気がした。
「そうね。お願いしようかね」佳子が返事をすると、
「分かった」そう言って真奈美は障子を閉めた。そして、「誰だって言いたいことや、やりたいことはあるんだよ。私だって兄ちゃんの受験が近づいてから、じっと我慢してるんだからね」と独り言のように呟(つぶや)いた。
「でもやっぱり京大に行きたい」真奈美が障子を閉めるのを待っていたように、健一がぽつんと言った。
暫く間を置いて健一は、「でも、やっぱり行きたい。もう一度チャレンジしてみたい」と言った。「させて貰えませんか?」
健一がそう言った時、三人を取り巻く刺々しい空間が一挙に凍り付き、白々と変質した。凍り付いた健一の言葉が三人の間を飛び交い、鋭角に尖った角は、三人にぶつかっては、言葉のない悲鳴を上げた。「京大に行きたい」その言葉が、薄ら笑いを浮べながら三人の間を飛び交いながら、三人三様の思いを切裂いた。再び沈黙が襲う。白々とした沈黙が座敷を支配した。そこに三人の人間が三様の本心を持って座っている。其々が其々の思いを知っていながら、知らん振りをして座っている。そんな虚しさの中を、「もう、一度、やってみたい」という健一の言葉がゆっくりと漂った。
「そうねぇ。一浪は、ヒトナミと言うからね。当たり前って言う人もいるからね」と佳子が溜息混じりに言った。そう言った後、佳子は両手を顔の前に組んだ。そして、考え込むように黙ってしまった。
佳子は本心では、健一に現役で大学に入ってもらいたいと思っている。本当は、「何が不満なの?何故そんなに第一志望にこだわるの?」健一にそう聞いてみたいと思っている。しかし、彼女は自分の本心とは違うことを口にした。息子の願いを叶えてやりたいという母心だ。ただ佳子は、自分の将来は有名大学に入るだけでは切り開けないことだけは理解して欲しいと思った。卒業した大学の知名度だけで生きていけるほど世の中は甘くない。ただ其処にいればサクセスへの可能性を掴むチャンスが広がるのは確かだろう。しかし、それは人生全体の可能性に比べたら、ほんの微々たるものでしかないのだ。そのことだけは分かって欲しいと思った。
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