蒼い雨に濡れながら
「本当にお母さんはそう思っているのか?私にはそうは思えないけど」俊太郎が言った。そして、「お父さんは経験がないから分からないけど、浪人ってどんな意味があるのだろうか?」と言葉を続けた。
「お父さんは家に金がなかったから、師範学校に入学した。丁度旧帝大が国立大学に変わる時だったから、新制の大学に行ってみたいとも思った。でもそうしなかった。いや、金銭的に出来なかった。でも、今は師範でよかったと思っている。何故ならこうして教員としてお前達を立派に養っていると自負しているからね。
お父さんにも夢も憧れもあった。誰だって同じだろう。ただお父さんは現実的な選択をせざるを得なかっただけかもしれないが、今はそれで良かったのだと思っている。ただ、それが本当に人生の正しい選択だったのかと問われれば、よく分からないと言う他ない。恐らく誰も答えを出すことが出来ない問いだろうと思う。でも、健一、人生なんてそんなものじゃないのか。誰にもその時々の選択が正しいものなのかどうかなんて分りはしない。回りの意見を聞き、判断していくしかない。独善ではいけないんだよ。
ただ一つ言えることは、お父さんは其処で頑張ったということだ。大学に行った人間に負けるもんかと歯を食い縛って頑張った。兄ちゃん、同じことじゃないのか。選択する場所の問題じゃなくて、其処で自分が何をするかの問題じゃないのか」
「それに立命館なら文句はないと思うけどね。お母さんとしては」佳子も本音の言葉を継いだ。佳子はそう言いながら、浪人してまで夢を追いたいという息子と、現実を直視する父親を比べていた。その時点その状況での判断の軽重を抜きにしても、俊太郎の言葉にはここまで彼が生きてきた人生の重さがある。そして、それに基づいて健一の将来を案ずる父の姿があった。自分の経験を語ることで、彼は生きていくということの常識を健一に教えているのだろう。ならば健一は、父親の言うことに素直に耳を傾けるべきなのである。だがそう思う反面、息子の判断も、ある意味で彼の人生にとっては重い判断には違いないとも思った。彼は将来のハンディを自ら買って出ようとしている。それはそれで確かに大きな賭けだ。ただそれが健一の人生の中でどれほどの意味を持つのかが、佳子には分からなかった。夢を追わせてやりたいと思う。しかし、それが長い目で見た時に、それ程の意味がないことならば、母親として止めさせなければならない。夢は食べられはしないのだ。それに一年浪人したところで、京大に入るという保証は何もない。浪人をすれば一年間受験勉強するのだから、学力は上がると考え勝ちだが、むしろ学力は下がるという話すら聞いたことがある。浪人をするということは、その意味でもリスクが大きいのだ。もし失敗すればこの競争社会で彼は一生そのハンディを背負うことになってしまう。
健一は父の話を聞きながら、じっと庭を見つめている。その言葉を噛締めるように聞きながら庭から目を離さなかった。確かにそれはそうなのだと健一は思う。確かに親父が言う通りなのだ。健一は父親の言葉に頷きながら、それでも心に渦巻いている歓喜の残像から目を逸らすことが出来ずにいた。

沸き返る歓喜の渦、歓声、笑い声、祝福の声、笑顔、感涙、叫び声、雄叫び、握り合う手、抱き合う身体、宙を舞う身体。喜びを表現する全てのものが一体となり、喜びの渦を形作って俺を取り巻いた。俺はその中を歩いていた。独りとぼとぼと歩いていた。歓声が大きければ大きいほどそれは俺の誇りを打ち砕いた。笑顔が輝けば輝くほどそれは、俺を冷ややかに嘲笑(あざわら)った。くそ婆が。「あなたは通りましたか?」そう言った。幸せそうな微笑みを浮べて、娘と手を取り合って、横に居た俺にそう聞いた。俺の顔を見て、腹の中でこいつ落ちたんじゃないか。そう思っていたに違いない。そう思って嘲笑っていたに違いない。
分かっている。確かにその通りなんだ。俺だって分かっているんだよ。立命館で何が不満なんだ。不満なんかないさ。上出来じゃないか。ただ期待が大きかっただけだ。夢が大きかっただけだ。期待?夢?夢って何だい?期待って何だい?落ちて、ただ意地になっているだけじゃないのかい?
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