蒼い雨に濡れながら
「でもよく女の子が遠くに行くのを許してくれたね」健一は言った。「うちの親なんて男なのに心配して色々言っていたけどな」
「本当はせいぜい福岡位までの大学にしてもらいたかったみたいだけど」
「そうだろうね」
「でも、うちの親も、健ちゃんが京都を受けるって知っていたから、少しは安心していたのかもしれない」
「何言っているんだい。今みたいに近所に住むのなら話は別だけど、住む場所も大学も違うんだから」
「そう言うけど、いざと言う時に健ちゃんが京都に居ると居ないとでは大違いという意味よ」美樹はそう言って笑顔を見せた。ただその笑顔には寂しげな陰りがあった。
「ところで和也は九大だったよね?」健一が話題を変えるように言った。
「そうよ。順子も西南大だよ」
美樹はそう言って健一を直視した。順子だって和也の近くに行ったじゃない。一緒に福岡に行ったじゃない。美樹の目はそう健一に訴えている。だが健一は、美樹が言外に匂わせたことに気付いてはいない。
「傘貼りは俺だけかな?」健一は憂鬱そうに言った。
「私が親しい人にはいない」美樹は少し鼻白んだ。
「そう言えば斎藤君も駄目だったと聞いたけど」
「でも健ちゃん、もう浪人するみたいに言ってるけど、忘れていないでしょうね。あなたは立命館に合格しているのよ。入学金だって納めているのよ。だから私は言っているの。何度も言うけど、浪人するより大学生活の一歩を踏み出した方がいい。そうに決まっている」美樹は言った。「本当は行ってもいいって思ってるんでしょう?だから入学金だって納めたんでしょう?」
「納めたのは親だよ」
「当たり前じゃないの。そんな言い方卑怯だわ。健ちゃんの気持ちを聞いているのよ」
健一は返事をしなかった。二人の間に、また白々とした沈黙が下りた。
「私ならそうする」暫くして、美樹が呟いた。「絶対にそうする」
そう言う美樹の中に、もう一人の美樹がいた。
その美樹は健一と手をつないで京都御苑を歩いている。抜けるような青空の元で澄み切った空気が御苑を包んでいる。その爽やかな空気を胸一杯に吸い込みながら、二人は白く輝く砂利を踏みしめるように歩いている。ざっ、ざっと二人が歩くたびに砂利の音がする。健一は擦り切れたブルージーンズにGジャンをラフに着ている。膝が擦り切れて白い糸が見えているジーンズの太腿あたりに、LOVEという文字が駆け上がるように刺繍されている。健一は破れかけた愛用の草色の布バックを無造作に肩に掛けている。美樹も揃いのGパンにGジャンだ。美樹のGジャンの背には小さく可憐なピンクの薔薇の刺繍がある。美樹は赤いブックバンドで止めたテキストを小脇に抱えている。御苑には二人の他には誰も居ない。健一が広々とした散策路の真ん中あたりで不意に立ち止まった。二人の横には御所の瓦葺の乾いた壁が何処までも続いている。烏丸通りの車の音がくぐもった遠い潮騒のように聞こえる。健一は美樹を正面から見つめた。美樹も健一の目を見つめ返す。微かに微笑を浮かべた優しい目が美樹をじっと見ている。向かい合った二人の間をゆっくりとした風が通り過ぎて行った。
私の夢。私の願い。そんなに難しいことかしら?たったこれだけのことが何故そんなに難しいの?
美樹はもう一口レモンスカッシュを飲んだ。爽やかな刺激が喉を走る。小さな気泡がコップの底から湧き上がって、消えた。
健一が、美樹の顔から視線を逸らせた。そして、「でも、俺は、行きたい」独り言のようにそう呟(つぶや)いた。
< 6 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop