蒼い雨に濡れながら
第三章 三浪

(一)

スロットルを回すと小気味良いエキゾーストノイズが響いた。健一は軽快な排気音を響かせながら、緩やかなカーブが続く県道184号を走っている。
健一は色褪せたGジャンと揃いのジーンズを穿いている。後部座席にはピンクのウインドブレーカーを着た美樹が乗っている。ヘルメットからはみ出した美樹の髪が、風に激しく煽(あお)られていた。美樹は走り出す前は恥ずかしそうに健一から身体を離していたのだが、バイクが走り出すや否やそんな恥じらいも消し飛んだ。美樹は小さな悲鳴を上げて、なりふり構わず健一の背中にしがみ付いた。バイクの後部座席に座るなど生まれて初めての経験である。そんな美樹がタンデムグリップに捕まって身体を支えることなど、出来るはずもなかった。健一は美樹が力一杯しがみ付いた時、面食らってバランスを崩しそうになって、肝を冷やした。背中に恋人の存在を感じながら浮き浮きするようなツーリングをやろうと思い描いていたのだが、それどころの話ではない。健一は苦笑いをしながら、スピードを落として慎重にバイクを走らせた。一人だと身体が反応するままにバイクを倒して駆け抜けるカーブも、後ろに美樹がいるとそうはいかない。健一は美樹が怖がらないようにバイクを水平に保ったままスピードを落して駆け抜けようとした。だが、かえってバランスを崩しそうになってドキリとした。
市内を抜け、山間の184号に入る頃になると、美樹は少しずつバイクに慣れ始めた。そして、周りの景色に目を向ける余裕が出来た。周囲にはのどかな山間部の景色が広がっている。山林を切り開いた畑の間に牛舎が見える。道路際の産地直売の野菜の販売所には、一台のセダンが止まっていて、老夫婦が野菜を手にして店番の老婦人と話をしている。美樹は自分を取り巻く風が澄み切っているのを感じていた。木々達に浄化された風が自分を包み、その爽快さを全身に浴びる喜びが沸々と湧き上がってくるような気がした。
「いい気持ちね」美樹が大声を張り上げた。
運転している健一は、風の中に微(かす)かに美樹の声を聞いたような気がした。健一は前を向いたまま「何か言った?」と叫んだ。だが、その声はノイズに掻き消されて美樹に届かない。
こうして健一の背中に頬をくっ付けるなど美樹にとっては初めての経験だ。こうしていると健一のぬくもりが直に伝わってきて、心が騒ぐ。私は今、彼の体温を感じ、そのぬくもりに身を委ねている。そう思うだけで頬が赤らんだ。これ以上何もいらない。そう叫びたいほどの感情の高ぶりが湧き上がってくる。これまで美樹は幼馴染の健一を異性としてではなく、兄妹のような感覚で捉えてきた。だが、今日に限ったことではなく、最近自分の気持ちに変化があるのを自分でも気付いている。余りに近すぎて気付かなかったことに、初めて気が付いたような気がするのだ。恋人。最近の美樹は、健一に対してそんな言葉を意識するようになっていた。そんな健一の背に頬を預けていると、自然と笑みが浮かんでくる。私はこの人に恋をしているのかもしれない。そんな喜びが実感出来るのだ。風になった二人を軽快なエキゾーストノイズが包んでいる。
美樹がバイクに慣れたのが感じられるにつれ、健一は本来の姿を取り戻していった。自分が自然と一体化していくのが感じられる。自分を駆け抜ける風が自然の風と一体化し、身体にへばり付いた日常を吹き飛ばす。身体の隅々にまで染み込んだ淀んだ倦怠と惰性が、疾駆するバイクに切り裂かれ、悲鳴を上げながら、後方へ吹き飛ばされて行くのを感じる。今日は上手くいっている。健一はそう思った。走る風が日常の淀みを吹き飛ばし、美樹の存在が、健一に重く圧し掛かっている浪人生活の憂鬱を忘れさせてくれているのだ。
だが、何時もこう上手くいくとは限らない。走れば走るほど哀しさに支配される時がある。爽快であるはずのエキゾーストノイズが苛立ちを増加させ、飛び去る風が心に冷たく吹きすさぶ時がある。
先週末に、一人でバイクを走らせた時がそうだ。走れば走るほど虚しかった。疾走するバイクが風を切り裂けば裂くほど、その風が俺の心を切り裂いていくのだ。あっと言う間に三年という年月が流れた。そう、あっと言う間に、三年間だ。俺は何をしているんだ。その想いが爽快さの上に覆い被さり、エキゾーストノイズを悲鳴に変えた。健一は小さな木陰を見つけると堪り兼ねてバイクを止めた。そして、ヘルメットをハンドルに引っ掛け、一本の煙草を咥えた。何時の間にか覚えた煙草。浪人には致命的だ。でも、俺はそこに逃げた。煙草の白い煙が、健一の周りをたゆとうように漂い、大空へ消えていく。煙の行方を追いながら、健一は言い様のない寂寥感に苛(さいな)まれていた。独りであることの実感があった。旧友達は社会に飛び立つ準備を始めている。それなのに俺は、まだその入り口にさえ立っていないのだ。遅れていく自分への苛立ちと焦り。順調に階段を駆け上がっていく旧友達への羨望。親の期待。自分の夢。美樹の願い。その全てが混沌とした泥濘の中で、出口を求めて足掻いている。何時まで続くのだろう。何時になったら終わるのだろう。健一は苦々しい思いで煙を吐き出した。「何も健ちゃんだけが辛いんじゃない。しっかりしなよ」健一は何時か美樹が言った言葉を自分に言い聞かせるように呟(つぶや)いた。だが、健一がそう呟いた時、その言葉は健一を励ますどころか、かえって哀しさを増加させた。「そうさ。その通りさ。俺だけが辛いんじゃない。分かっている。でも、今ここにいるのは俺だけなんだよ」健一は自分の心をじっとりと濡らす雨にも似た、独りであることの哀しさの中で、言葉にならない悲鳴を上げていた。
苦い煙草だ。背後の木の上で小鳥の声がした。チッチッ、チッチッと互いを呼び合うように鳴いていた。
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