祭囃子の夜に
「あっ……サーセン、俺が先に挨拶しないといけなかったんす! お帰りなさい、えっと……ぼっちゃん」

 翔一の態度は気にすることも無く、今気づいたと言わんばかりにテツが気まずそうに頭を下げた。
 ぼっちゃん、というのはもちろん翔一の事である。
 従業員の中には翔一が生まれる前から松岡左官店で働いている者も多数いて、そんな古株の従業員たちは翔一が生まれた時から「ぼっちゃん」と呼んでいた。
 内輪での呼び名が「ぼっちゃん」に定着してしまったのは、それが原因だ。小学校も高学年になると流石にぼっちゃん呼びが恥ずかしく、そんな呼び方やめて欲しいとささやかな抗議を行った事もあった。ささやかな抗議は「おっちゃん達にとっちゃ、例え四十路んなってもぼっちゃんはぼっちゃんだわな」という九割がた爆笑の言葉と共に一蹴されてしまったので、今ではもう諦めて受け入れている。
 テツが少し言い辛そうにぼっちゃんと呼んだのは、自分とさほど歳の変わらない相手に対する呼び名としては不釣合いであるからだろう。

「いいじゃないの、あかね。せっかく翔一も帰って来たことだし、早くみんなでご飯食べましょうよ」

 挨拶は生活の基本だとひとりごちるあかねを華麗に流して、三重子がテツの背中を押して居間まで誘導する。あかねに対してそんな事が出来るのは凡そ母である彼女くらいなものだ。

「ほらー、翔一も早く手洗って来なさいよ! 調度仕度出来たばかりだから」

 テツの背中を押しながら、ひとり玄関に残る翔一を母が急かした。
 洗面所の方からはガラガラとうがいの音が聞こえ、はやくもあかねが夕飯にありつく準備を始めたことが解る。
 翔一は靴を脱いで方向をそろえると、洗面所でも居間でもなく、玄関から左に伸びる広縁へ足を動かした。

「俺、いらないから」
「いらないって……せっかくてっちゃんも来てるのに」

 どこか不機嫌そうに言う翔一に、三重子と一緒にテツも立ち止まった。

「いらないって言ってんだろ! 食欲ないんだよッ」

 思わず怒鳴って、三重子の肩に掛けられた自分のバッグをひったくる。
 心配そうに様子を見守るテツと視線が絡みかけると、翔一はさっと顔を背けてそのまま早足で広縁を抜け、一番奥の自室へ向かっていった。

「……もう。なんかごめんなさいねぇ」
「いえ、大丈夫っすけど……。俺、なんかマズかったっすかね」

 申し訳なさそうに言う三重子に、テツは頭を掻きながら困ったように訊ねる。テツはテツで、あんなに解りやすく目を逸らすなんて、自分は翔一に対して嫌われるような何かをしたのかと気遣っているらしい。
 すると洗面所からやってきたあかねがさも大した事では無いようにさらりと言った。

「気にすんな。拗ねてるだけだから、色々」

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