たかしと父さん
その日はゆっくりと近づいてきた。

だんだんお腹が大きくなるさらは、どんどん輝きを増していった。

会社の先輩たちにも祝福されて、僕は妻に子供ができて幸せいっぱいの新米の父親でいなくてはいけなかった。

そのころになると「未来のことを考えすぎてはいけない」と自分で言った言葉が身に染みてきた。

未来のことを考えなければ、僕らの小さな家庭には愛と幸福が満ちていた。

臨月が近づいてさらの入院先は、元々さらが通っていた大きな病院だった。僕はさらの主治医に一回だけ一人で呼び出された。

「本人は自然分娩を希望している。麻酔から覚めない可能性を心配しているんだ。帝王切開の準備は当然している。しかし・・・」
「いいんです。分かってます。ありがとうございます。」

その日のことを僕は忘れない。

さらの陣痛が始まると病院は急にあわただしくなったように感じた。大きな病院なのでたくさんの人とすれ違う。でも、今からどんな大変なことが起ころうとしているのか、ほとんどの人が知りはしない。いや、違う。きっと、この病院にいる結構な数の人がそれぞれに大変なことになっているのだろう。それに僕が気付かなかっただけだ。

「たかし、ありがとう。愛してるよ。」
「僕もだ。」

恥ずかしがり屋のさらが人目をはばからずに僕に「愛してる」と言った。それほど陣痛はつらいのだろうか。分娩室に入っても、さらは僕の手を握って何度も同じことを言った。額から玉のような汗をかきながら、たくさんの助産婦と医者に囲まれ・・・僕だけが場違いな気がしたけど、さらは僕の手を握って離さない。僕だって離すつもりはなかった。

一度だけ、陣痛が弱くなった。

「ごめんね、たかし、わがまま言って。もうちょっと一緒にいたかったけど・・・」
「違う、わがままじゃない!二人で帰ろう!アパート帰ろう!!」
「ありがとう、愛してるよ・・・」

その言葉を最後にさらの意識は途絶えた。医師が血相変えて飛んできて、さらはそのまま手術室へ運ばれていった。妻、篠宮沙良は19歳でこの世を去った。高校生活3年、それと結婚生活1年と半分の思い出と娘を一人残して。

お義父さんは葬儀にも来なかった。葬儀にボスゴリラがきた。涙で化粧をずぶぬれにしてやってきた。

「サラ、最後になんて言ってた?」

考えたこともなかった。

「『ありがとう、愛してるよ』・・・」

沙良はずっと最後にこの言葉を遺したかったのか。

ありがとう、愛してるよ





ありがとう、愛してるよ
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