たかしと父さん
あの日のことをずっと覚えている。

私の陣痛が始まった。息ができない。予め入院していたから心配はなかったのだけれど、ベッドの周りは急にあわただしくなった。酸素吸入が始まる。呼吸は少し楽になったけれど痛みは容赦してくれない。「待ってて、お母さん頑張るから」と心の中で娘に呼びかける。私は陣痛が始まるまでは「娘を出産できるところまでは人生の中に織り込み済みで、痛みに耐えているうちになんとかなるだろう」とタカを括っていたのだが、そんなレベルではなかった。最初に考えたのは「このままだと娘と一緒に死んでしまう」と言う最悪のケースだ。陣痛の波が去ったので遺書を書く代わりに高志に最後に聞いてもらいたい言葉を言った。

「たかし、ありがとう。愛してるよ。」
「僕もだ。」

高志がこんなにスムーズに返答してくれることにびっくりした。周りにこれだけ人の目があるのに、そう答えるのがまるで普通の事のように。再び陣痛が来る。歯を食いしばって耐えていると、どんどんと意識が遠くなる。私は弱い。私は脆い。この時ばかりは私の弱い身体が憎かった。危うく気を失いかけて息を吸い込むと額に何かされているのが分かる。汗をぬぐわれているようだけれど感覚がない。視界の中に高志がいる。すがるような目で私を見ている。この右手の感覚は高志の手だ。

「たかし、ありがとう。愛してるよ。」
「僕もだ。」

意識が遠いせいで最後に言った言葉を繰り返しているだけだった。人間は反射的にこんなことができるのか。陣痛の波はどんどん強くなっている。助産婦さんとお医者さんに囲まれて分娩台に乗っている私は意識と共に痛みの感覚すら手放しそうになっていく。分娩台から死へ滑り落ちそうになっている。「この子だけは
何があっても絶対に産む!」と本能が叫ぶ。呼吸することに集中するために声はもう出せなくなった。視界の縁は黒い粒子が舞っていて、一度でも呼吸が乱れたら私は闇に包まれるだろう。「産みたい!」と頭の中で何度も繰り返した。高志の表情はどんどん不安になっていく。時計は見えない位置にあったので、最後に高志に声をかけてからどれぐらい時間がたったのか分からない。10分なのか、10時間なのか。その時、ふっとウソみたいに陣痛が弱くなった。ああ、お別れが来たんだなと思った。

「ごめんね、たかし、わがまま言って。」
「違う!」

高志の大きな声。

「もうちょっと一緒にいたかったけど・・・」
「違う、わがままじゃない!二人で帰ろう!アパート帰ろう!!」

最後に全部知ってたことをばらしてしまおうと思ったけど、高志はそれも知ってたんだと気づいた。こんなに鼻水垂らして、こんなに涙流して。それにしてもこんな澄んだ鼻水、こんなにドバドバと・・・ああ、そうかこれが高志だ。

「ありがとう、愛してるよ。」

そう自分がゆっくり呟くのを聞きながら世界は真っ白になっていく。真っ白になってもしばらくは高志の声だけが聞きとれていた。もう流す涙は無いけど、私、幸せになれた。視界の中には生まれてからこれまでの「たかしと父さん」が浮かび上がる。でも、私の「さら」ごめんね、あなたの顔が一目見たかったの。お母さんを許して。

だがしかし、その思いは少し痛みを伴う形で叶った。
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