こころは霧の向こうに
意志の強い緑の瞳が、下からじっと覗きこんでくる。翡翠のような深い色合いの瞳は、彼女の性格を表すようにいつもきらきらと輝いていて、ブラッドの心を軽くしてくれる。しかし今、慈しみと心配を色濃く宿した緑の宝石は、見せたくない心の裡までも暴き出してしまいそうで、彼は僅かに目を逸らした。
 動揺を悟られないよう、不自然にならない程度に目を逸らしたままで、ふっと微笑みを返す。
「人聞きの悪い。何も企んでなどいませんよ、ベッキー」
「それならいいのだけれど」
 義弟の自然な笑みに毒気を抜かれ、ベッキーは小さく返すしかできなかった。ブラッドは落ち着き払っていて、ベッキーの揺さぶり程度では尻尾を出しそうにない。

(何も企んでいないわけがないじゃない)
 彼がどこまで本心からいっているのかはわからないけれど、アーサーは心配して色々と勘ぐるに決まっている。社交界から距離を置いてきたフォード伯爵が、ある特定の女性を気にかけていると知れれば、様々な憶測が飛び交うのは間違いない。下手をすれば、ブラッドだけでなく、リンズウッド伯爵未亡人も傷を負う羽目になる。

 だがベッキーには、肩を竦めて憎まれ口を返すのが精一杯だった。やり手の事業家で、交渉力には絶対の自信を持つ義弟が相手では、仕方がない。
「久しぶりに逢ったというわりに、随分リンズウッド伯爵未亡人を気にかけているようだから」
 ちくりと仕込んだ針は、確かにブラッドの喉元に刺さったはずだったが、憎らしいことに彼は平静そのものだ。
「ええ、彼女が大変に苦労してきたと聞きましたからね。嫁いですぐに夫を亡くし、女手1つで領地を管理し、ヨークシャーに籠もりきりで子供を育ててきたと聞けば、誰でも同情するでしょう?」
「それはお気の毒だと思うけれど・・・・・・」
 至極真面目な顔つきで、若い未亡人の身の上を語られれば、ベッキーとて頷くしかない。するとブラッドはたたみかけるように、
「久しぶりに出てきたロンドンで、社交界を楽しむのも良い気分転換になるのではないかと思ったのでね。それは本来、彼女に許されているはずの権利ですよ。だがこの町の空気は不味い。ハンプシャーの自然の中なら、母子揃ってくつろげるでしょう?それぐらいのお楽しみはあってもいいんじゃないかな」
 古い友人として、手を貸したかっただけですよ。

 どこか遠くを見るような物憂げな眼差しで、ブラッドは最後にそういい足した。彼の表情には深い陰りが落ち、先ほどまであった微笑みは、欠片も残っていなかった。窓ガラスの向こうに視線を外して、黙りこんでしまったブラッドの身体を、拒絶のベールが覆っている。こうなってしまうと、彼は誰も受け入れない。

 これ以上の追求は不可能だ。

「レディ・リンズウッドは、お子さんのことで気を遣う必要はないわよ。他に子供連れのお客様はいないから、我が家の子供たちと一緒に遊べばいいのだから。乳母やナース・メイド(子守女中)がついていますから、安心していただけるわ」
 ため息を零す代わりに、ベッキーは、にこりと笑って義弟を見上げた。義姉の、明るくてきぱきとした言葉は、ブラッドの気持ちを多少は和らげたようだ。ゆっくりと義姉に向き直った彼の整った顔から、色濃く漂っていた陰りが、いくらか消えていた。
 霧の濃い夜空にじわりと滲む朧月のように、ぼんやりとした微笑が、口元にそっとのぼった。
「それは彼女も喜ぶだろう。ジェフたちにもいい友人ができるね」

 その言葉が、潮時となったようだった。素早い身のこなしで窓際から離れたブラッドは、長い腕を伸ばして義姉を抱擁し、彼女の白い頬に親しみをこめた挨拶のキスを贈った。そのままベッキーの両肩に手を置いて、彼は1歩後ろに下がった。エメラルドの瞳を、サファイアの瞳がじっと覗き込み、やわらかい光を宿して、細められた。
「本当にありがとう、ベッキー」
「あなたのお役に立ててよかったわ、ブラッド」
 手を外して身を翻すブラッドに、心からの想いをこめてベッキーは告げた。アーサーが帰宅する前に暇乞いをするつもりのようだ。兄に捕まればまた何だかんだと質問攻めにされるからだと見当はついたが、書斎を出て行こうとする広い背中に、ベッキーはダメもとで声をかけた。
「もう行ってしまうの?せめて晩餐を一緒にしていけばよいのに。サラも喜ぶわ」
 振り向いた顔には、申し訳なさそうな微笑が浮かんでいたが、返ってきた言葉はきっぱりしたものだった。
「お誘いは嬉しいが、まだこれから寄らなければならないところがあるんだ」
「そう・・・それは残念ね」
 表情を曇らせたベッキーに、彼はきっぱりとした口調は変えないまま、言葉を添えた。
「アーサーやサラにはよろしくいっておいてくれ。ゴールド・マナーには、早めに帰るようにするから」
 休暇は必ず取るという宣言だ。それを聞いたベッキーの表情が晴れたのを確認してから、ブラッドは慌しく馬車に乗り込んでいった。

 玄関ホールで見送ったベッキーが、書斎に戻ろうと階段を上がりかけたとき、入れ違いにアーサーが帰宅した。再び玄関ホールに下りて夫を出迎え、夫妻は揃って書斎へと上がっていった。
 妻の口から、弟の来訪と客人の追加を聞かされたバリー伯爵は、予想通り顔をしかめたけれど、反対はしなかった。伯爵家の女主人が承諾しているのだから、今更彼がとやかく口を挟むことはないと考えているのだ。生真面目で口うるさい性分なのに、夫はいつも肝心なところで、ベッキーの決断を尊重し、彼女の顔を潰さないよう気遣ってくれる。
 感謝の気持ちをこめて抱きつき、長身の胸に顔を埋めたベッキーの背中に、力強い腕が回される。夫のベストにぴたりと頬をつけていたから、彼が口を開くのに合わせて、振動が肌を震わせる。彼の声が、いつもよりも深いところに落ちてきた。

「何事もなければいいのだが・・・・・・」
「アーサー、ブラッドはもう一人前の大人よ。わたくしたちは、見守っているしかできないわ」
 夫の眉間には、間違いなく皺が刻まれている。彼の言葉には深く頷きたいところだが、気持ちを引き立てるように、頬を寄せたまま、さばさばした口振りでベッキーはいった。夫の手が、やわらかな金髪をそっと撫でている。安心させるように、背中に回した腕にぎゅっと力をこめて、ベッキーはいっそう深く頬を擦りつけた。
「ブラッドは大丈夫よ。信じましょう、アーサー」
 言葉が返ってくる代わりに、夫の腕にも力がこもるのを感じながら、ベッキーは、1人きり馬車に乗り込んでいった義弟の背中を思い出した。

 相変わらず他人を寄せつけたがらない彼が、リンズウッド伯爵未亡人に興味を示したのは、心配でもあり、好ましくもあった。この5年の間、ブラッドが誰かに関心を持ち、執着を露わにしたことなどなかったのだ。それを思えば、あの2人の再会は、彼に変化をもたらずきっかけとなるかもしれない。ブラッドの本心がわからない以上、良い方か悪い方か、どちらに転ぶかは予測できないけれど、少なくとも、他人と関わりを持とうとするのは、良い兆候だ。
 残念ながら、ベッキーも夫も、リンズウッド伯爵未亡人と面識はほとんどない。5年前も祖母とスタンレー子爵夫人の繋がりで、ハンプシャーに招いただけなのだ。今回のハウスパーティーで、彼女の人となりを確かめてみよう。おそらく夫もそうするつもりだろうとは思ったが、大切な義弟が関心を示す女性は、是非ともこの目で確かめなくては。夫の胸にぴったり寄り添いながら、ベッキーは満足げに微笑んだ。
 楽しいパーティーになりそうだ。



 セント・ジェイムズ・ストリートの家へ戻るよう御者に告げると、馬車は滑るように動き出した。座席のシートに背中を預け、窓の外を流れていく夕闇の街を眺めながら、ブラッドは小さく息を吐き出した。身体が重く、鈍い頭痛がずっと続いている。

 休暇を得るためだから、仕方ない。

 両手の人差し指で、こめかみをマッサージするように揉みながら、ブラッドはこれから出発までに済ませておくべき用事を頭の中でリストアップした。帰宅したら、執事に指示しておかなくてはならない項目もいくつかある。今宵もまた、寝台に潜りこむのは日付が変わった後になりそうだ。
 身体の不調は、事業に没頭するようになって以来、馴染みのものになってしまっている。軍隊で鍛えられているせいか、調子が悪くてもある程度精神力で持ちこたえられるから、ついつい無理をしてしまう。
 兄夫婦だけでなく、執事も家政婦もブラッドの健康を案じてくれるが、今回は、休暇を得るために様々な予定を前倒しでこなしているのだ。時間を捻出するにはこうするしかないのだから、仕方ない。

 ハンプシャーで過ごす休暇を思うと、ブラッドの表情は和らぎ、このときばかりは頭痛も軽くなる。豊かな自然に囲まれたゴールド・マナーを愛していたし、久しぶりにそこで寛げるのは素直に嬉しかった。そして、今回はソフィアがくるのだ。
 招待状を受け取ったら、ソフィアはどんな顔をするだろう。オルソープ家の舞踏会で、欲望に負けてキスをしてしまった時のブラッドのように、激しく混乱するだろうか。
 あの時のことを思うと、ブラッドの胸には苦いものがこみ上げる。
 初めは、余裕を忘れてはいなかった。ダンスを利用して、彼女が動揺するような体勢に持ち込んだりしたのは、いちいち些細なことに正直な反応を返す様子を眺めて、自分が優位に立っているのを確認したかったからだ。それが思いのほか、うぶな反応が返ってきて、こちらの調子も狂ってしまった。5年前と同じ、無垢なままのソフィアが、目の前にいるのだと錯覚してしまいそうになるほどだ。
 その上、気分が悪くなった彼女は、この腕を信頼しきって、身体を預けてきた。蒼白な顔で助けて欲しいと訴えてくる彼女をバルコニーへ連れて行き、優しく介抱してやったのは、計算した行動ではなかった。真っ青な顔の中、大きな瞳を苦しげに潤ませて、縋るように見つめられたとき、何も考えられなくなった。胸を占めたのは、彼女を守らなければならないという強烈な庇護欲だけだった。

 衝動的に彼女の唇を奪ったのは、全くの誤算だった。微かに首を傾げるように見上げてくる、濡れた瞳。本人は無意識だろうが、あれを目の当たりにしたら、大抵の男は、理性を焼ききられてしまうだろう。
 一度彼女に裏切られているブラッドでさえ、瞬く間に欲望の虜になってまったのだ。瑞々しく甘美な唇を味わうのに夢中で、彼女が反応を返してくるまで、自分が何をしているのかわかっていなかった。まるで手管を知らない初心な少年に戻ったかのように。
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