私と彼の恋愛理論
たとえ、このホテルで彼女が働いていたとしても、簡単に会える訳でもない。

それでも、僕はこのホテルにやってきた。

そして、このワインのオーダー。

我ながら、苦笑してしまう。

僕と彼女を繋ぐかすかなもの。

ワインとシェイクスピア。

僕はそんなかすかなつながりでさえ、縋り付きたいと思っているのだろうか。


『その方は、シェイクスピアだけじゃなくて、イギリスにも、海外生活にも興味を持てなかった。違いますか?』

あの日、伊野まどかは彼女についてまるで知っているかのように語った。

そして、彼女の気持ちが少し分かると言う。

『仕事も辞めて、知らない土地、しかもあまり興味が持てない国で暮らす。皆川さん、想像してみてください。もし、相手の側にいたい、それだけで付いていったとしたら、その後どうなるか。』

それは、僕にとっては耳が痛い話だった。食が興味の中心である彼女にとって、イギリスは確かに魅力的な国だとは言えないかもしれない。

でも、もし一緒に付いてきてくれたのなら、僕は彼女と過ごす時間を大切にしただろう。

彼女にイギリスでの暮らしを楽しんでもらえるよう、僕は最大限の努力をするつもりだった。

そのことを伝えると、伊野まどかは首を振った。

『だから、彼女は行かなかったんです。あなたを愛していたから、あなたの邪魔をしたくなかった。…とても強くて、愛に溢れた人だったんですね。』

僕は、その言葉にはっとした。

なぜなら、僕の愛していた恋人、木原翔子は、まさにそんな女だったからだ。


「お待たせいたしました。」

不意に、右後ろから声を掛けられ、僕は現実世界で振り返る。




時が止まったかと思った。




「20××オテロです。」

そこには、強くて、愛に溢れる女が立っていた。
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