私と彼の恋愛理論
グラスにワインを満たしている間、翔子は口を開かなかった。

ボトルをカウンターに置いてから、彼女は僕と一瞬視線を交わす。

その時を逃すまいと、僕は話しかけた。


「先月、帰って来たんだ。」

彼女は少し戸惑った顔をした後、小さな声で囁いた。

「…おかえりなさい。」

笑顔ではなかったが、柔らかい表情をしている。

「ただいま、翔子。」

僕もうまく笑えていなかっただろう。

必死にこらえたけれど、不覚にも泣きそうだった。


「少し話す時間をもらえないか?」

控えめに尋ねた僕に、彼女は戸惑っているのか、返事はない。

「迷惑?」

「そんな、迷惑だなんて…」

「じゃあ、いいだろう?」


僕は、強気な視線で彼女に訴えかける。

どうしても、君と話がしたい。

できることなら、二年前の君の気持ちが知りたい。



でも、一番は。

もう一度、君の笑顔が見たいんだ。



僕の気持ちが通じたのか、彼女はようやく少し微笑んだ。

「もうすぐ、仕事終わるから。」

「ああ、飲みながら待ってる。」

僕はほっと胸をなで下ろした。

じゃあ後で、と言い残してその場を立ち去ろうとする彼女をもう一度呼び止める。


「もう、シェイクスピアは十分だ。今日は、ワインの話をしよう。」

僕は静かに頷く彼女の背中を見送る。



まだ、新しい生活は始まったばかりだ。
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