私と彼の恋愛理論
グラスを満たす間、頭が真っ白だった。
もう会うこともないと思っていた男が目の前にいるのだから。

彼の名は、皆川敬一郎。
私が二年前に別れた恋人だ。



嫌な予感はあった。
先輩ソムリエである牧田がやたらニヤニヤしながら、戻ってきた時に。

「木原、コレ持ってったら、もう上がっていいぞ。」

そう言われて渡されたのは、オテロのフルボトル。
バーの客の注文らしい。

嫌な予感はしたものの、連勤で体が悲鳴を上げていた私は、早く上がれるという魅力的な言葉に飛びついた。

用意をして、バーへ向かおうとする私に牧田が再び声を掛けた。


「シェイクスピアの研究者らしい。」

その偉大な作家の名前にか、それとも研究者という単語にかは分からないが、私は過剰に反応する。

「…どんな嫌がらせですか。」

先輩のたちの悪い冗談にため息をこぼす。

「親心だよ。ひょっとすると、お前の王子様なんじゃないの。」

「まさか。あの人がここに来るわけないじゃないですか。」


そう。彼はイギリスに居るのだから。

二年前に自ら手を離した恋人は、きっと私の言葉に傷付いて海を渡った。
今頃、私に失望して、恨んでいるだろう。

プロポーズを断り、彼を一人で旅立たせた理由。
それを、彼の仕事の邪魔になりたくなかった、と言えば少しは女が上がるだろうか。

だけど、本音を言えば、自分が彼の重荷になって捨てられるのが何より怖かった。

私には、ワインしかない。
英語も話せない。
生まれてからこの街を離れたこともない。

仕事も家族も友人もすべてを置いて、彼だけを選ぶ勇気が私にはなかった。

ただそれだけのことだ。


牧田には、二年前に散々からみ酒に付き合ってもらった時に、事情を話した。

あの時は飲み過ぎて、彼だけでなく、彼の奥さんにまで心配を掛けたっけ。

そんなことを業務用のエレベーターの中で考えながら、最上階のバーまで向かう。

実はシェイクスピアとは縁もゆかりもないワインを抱えて。
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