甘噛みを、知りたくて
序章 「人生の転機」、その始まり
かぷっ。


と勢いのある擬音語を口にしながら、
イツミは英人(ひでと)の耳に、
かぶりついていた-----。


(みみたぶ…柔らかい!)


歯の力を抑えつつ、
それでも感触が伝わる力加減。
なんども空想、
いや、妄想したその行為を
イツミは達成したのである。


「いえーーーい!!!」


バッと英人から身を離し、
ブイサインを見せて
笑い声をあげた。


英人は固まって
呆然とイツミを見ていた。


8月。
夜。
繁華街から駅に向かう路上、
近道のために少し細い道。
人通りはまばら。


今日は慣れないお酒をずいぶん飲みすぎたが、
父方の家計の酒豪の遺伝子のおかげか
すいすい飲めた。
飲みすぎた。

そして、
酔っ払いの完成である。
英人の前はおろか、
親友以外にこんな酔っ払いの姿を
イツミは見せたことがなかった。


「どうですかぁー、
ひでとさん!!
私、けっこう大胆なんですよー!
人生、冒険だって出来るんです!!!」


酔いで訳がわからない、
という感じではない。
頭のどこかはひどく冷静だ。
足元はふわふわする。
でも、九九もちゃんと言えそうだし、
映画の俳優の名前だってスラスラ言えそう。
だけど、
同時に怖いものなんてこの世から
滅しちゃったんじゃないか、
ってくらい楽しくて勇気もわいてくる。
勇気はわくけど、
先のことなんかはどうでもいい、
なんて調子だが。


(あはは…私何やってるんだろう!
…でも、超楽しい…)


イツミはへらへら笑いながら、
英人に背を向けて
のらりと、
ルンルンと
駅へのほうへ歩みを進める。


初めて、
男性の耳たぶをかんじゃった。


「これが、
甘噛みなんですね、
えへへへへへ」


自分は酔ってるなぁ、
と自覚はあるが、
この「初めて」が宝物みたいに
わくわくして、
楽しい気持ちがとまらない。


と。


「イツミ・・・ちゃん」

イツミの左腕がつかまれた。
振り返る。


英人の顔がそこにあった。


「----!!!!」


唇に熱いものが押し付けられていた。


英人の、唇だった。



(あ…れ……。えええ??)


英人の閉じられたまつ毛のドアップ。
今、イツミは
目を見開いたままキスをしているらしい。


心臓が飛び上がりそうになる。


(ど…ど…どうしよう)


混乱する。
でもその甘やかな感触にうっとりして
目を閉じた。


(私…今、
キスしてるんだ…英人さんと…)


キスなんて、
何年ぶり…。


思考がまわらない。


気持ちよすぎる。


無我夢中で
腕を英人の背中に回す。


すると、
「…んんっ…!!」


唇を割り込ませるように、
英人の舌が入り込んでくる。

イツミの舌を絡ませるように。


電流が走るように…、
そうロマンス小説でよく見る表現通り、
イツミの背中に衝撃が走る。


なんだろう、
これは、
この感覚は…!!!


数年前の、あの乏しい経験の時、
あの時されたディープキスは
甘さも何もなかった。
相手はベロベロに酔ってたし、
自分勝手にぐいぐい進む男性だったから。


今の、
この瞬間、
自分に訪れた経験は
まったく別の感覚がして
イツミの頭の中はぐわんと揺れた。


「ひ…でと…さん…」


唇が離れた合間に、
英人の名前が口からこぼれる。
あれ、私ってこんな甘い声がでるんだ、
とイツミは自分に驚いた。


すると、
イツミの肩に添えられていた英人の腕が、
イツミの腰…ウエストとヒップの間に
おりてきて、
ぐっと力が込められた。
体を英人に引き寄せられた。


ドキンッ。


心臓が跳ね上がる。


そんな、甘やかな行為、
イツミは慣れていなかった。



イツミは処女ではなかった。
が、あまりにも短く散った恋の、
20歳の時の、ただ一度の夜。
憧れていた先輩と、まともに会話できた夜。
相手の衝動に身を任せ、
初めてのことにテンパりながら、
驚きと激しい痛みと衝撃と
「処女は捨てた」事実くらいしか
イツミには残らなかった。
しかし、その恋は
苦い苦い結果となって、
イツミの恋愛遍歴は暗黒期が続いていた。


今まで。


そんな何年かぶりに、
今……


(男性と、キスして…
あれ?)


重なる唇。


香るアルコール。


(わ、わたし、
また同じことを
繰り返そうとしている?)


20歳の苦々しい記憶がよみがえる。



またお酒の勢いで
男性と…!!


しかも、今回は
大好きな相手で。
憧れよりも大好きな相手で。


この人との会話の時間が
何より愛おしくて
大切に育てていた恋心だったのに。



「ごめんなさい!」


熱を帯びだした英人の手と唇を振り切って、
イツミは駅へ猛ダッシュで逃げ出した。
振り返らずに。
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