およしなさいよ、うさぎさん。
およしなさいよ、うさぎさん。
 
 草の根を掻き分けて、足音をたてずにしゃがみこむ少女の姿をみつけた。危機感を感じてぴんと立った白く長い耳をしっかりと見据えて今にも飛びかかろうとしている。濃紺の袴(はかま)を太ももまで持ち上げて、少女の華奢で白いお足が人が行き交う道端からもよく見えてしまっていた。
 少女が、姿勢を低くして獣が小動物を食い殺す時の顔をした。
「およしなさいよ、うさぎさんですよ。私はこのようなことをあなたに……」
 少女は篤(とく)の言葉を待たずに「うさぎさんではなく、わたしのお夕食になります」と唸りながら早声をあげて、うさぎに飛びかかる。
 力んだ手から、うさぎが一瞬だけ速くぴょこんと逃げ出した。少女は「嗚呼」と地面に額をつけて、邪魔をした男を睨みつけた。
「ごきげんよう、菖(あやめ)さん」
「ごきげんよう、せんせい」
 菖は、素早く地面から起き上がると袴の裾をぱんと叩いて元に戻し「それではさようなら、せんせい」と伏せ目がちに、ほんの少し頭を傾けて歩き出した。

 菖の長いまつげはとても綺麗だ、と篤はおもう。

「女学校にはいらっしゃらないのですか?」
 篤の間の抜けた声に、菖はありったけの嫌悪感をあらわにした。篤はそれに気がつかないふりをして「いらっしゃいな」とまた間の抜けた声を出して、菖を苛つかせた。
 食事を十分にとることができずに貧窮している菖には、綺麗な縦襟の洋服を着ていて十分な栄養を摂取しているであろう華麗で粋な男はしゃくに障る存在だ。

「いらっしゃりませぬ。菖には、女学校に通うための銭がないのです。おいえも、おきものも、母さまも姉さまも全部売られてゆきました」


 父が博打(ばくち)を投じてしこたまこさえてきた借金のせいで、家財だけでなく全て売られてしまった。母と姉までも遊郭に売られてしまったのだ。まだ売り物にならない菖と酒を飲んでばかりの父とは掘っ建て小屋に押し込まれた。
 父さまは昔のようには笑ってくれなくなってしまった。
 朝から酒瓶を枕にして眠り、目が覚めると酒を飲む。ほんの僅かに残った銭はすべて父の酒代にかわってしまった。食べ物も与えてもらえず四六時中酒臭い父さまを掘っ建て小屋で見ていないとならないならば、遊郭にいた方が天国かもしれないと思った菖は、小屋を飛び出し、そこまで半日の時を費やし歩いて遊郭へとむかった。草履の緒が指と指の間に食い込み、足には擦り傷がたくさんできた。苦労してたどり着いた遊郭では、薄いおきものを着せられ格子の張見世に座らされている母の姿を見つけだすことができた。
「菖、あなたはここに来てはいけません。もう二度とここには来てはいけません。母さまの言うことはきくのが孝行な娘のすることなのですよ。
 あなたの父さまは、立派な武家のおいえがら。いつか、お国におられる血縁のものがきっとお助けに参ります。それまでの辛抱ですからね……」
 母は娘の前では確信に満ちた顔でそう言うと、名残惜しそうに別れの言葉を述べ、そして多くの遊女に紛れて座り死んだ魚のような目で格子の外を眺めていた。
 そうして、行き場を失い宛もなく歩き続けてうさぎさんをお夕食にしようと思ったのだ。


「菖さんは、おなかがすいているのですか?」

 篤が笑うと狐に似ている。菖は洋服を着た狐に「いいえ」と返事をした。
「おなかがすいているのなら、うちにいらしてください。牛鍋をご馳走いたしましょう」
 牛鍋と聞いて育ち盛りの少女の胃袋はぎゅうと鳴った。それも悔しいので意地を張り腹の音を誤魔化そうとしてしまうのは、菖がかつては上流階級の娘であったからであろう。
「牛鍋は好きではありません」
「うさぎさんをお夕食になさるのでしたら、牛をつついた方がいいですよ」
「どうしてですか?」
 篤は「うさぎさんが可哀想ではありませんか」と言った。
「牛も可哀想です」
「でも、牛は体が大きいのです。うさぎさんは体が小さいのです。人に敵おうとしても抵抗できません」
 自分より弱いものをいたぶることはいけません、女学校での教えを思い出しながら菖は「むう」と唸った。

「さあ、参りましょう。菖さん」

 篤は、当然菖さんは付いてくるであろう、と思い、道を歩き出した。
 菖は戸惑いながらも、二歩ほど遅れて篤の背中を追いかけた。


 貴族院の議員家系である重永家の第三邸宅は、篤の住処だ。家族は皆第一邸宅で生活していて、住み込みで働く者以外は此処にはいない。
 父も、兄も、議員として国を動かす立派なおしごとをなさっておられる。
 しかし、篤は教師になった。それも女学校の一教師だ。
 模範的な行い、優しい話口調からも篤はとても人望の厚い教師なのだが、重永の次男としては少し物足りない存在とされた。

 新しく張り替えたばかりのような畳のよい匂いをかいで、菖は自分の足が土で汚れていたことを思い出した。足袋もなく素足で草の中を走っていたので、袴も汚れている。
「多江、この方に着物をきせてさしあげなさい」
 多江と呼ばれた女中は、こちらへ、とランプで照らされた板の間へと菖を案内した。
 菖が戸惑ってばかりいるので多江は愛想のない顔で「篤様をお待たせなさらずに」と強い口調で菖を叱りつけた。
「ひぃ」とその迫力に負けて声をあげた菖の腕を掴み、多江は汚い袴と着物を脱がし、固く絞った手ぬぐいでごしごしと体を拭き、乱れた髪を結って女中の為にこしらえた新しいおきものを着せた。

「お待たせいたしました。篤様」

 畳の大広間では、洋服から着物に着替えた篤が煙管をくわえていた。
 菖が部屋に入ると、少し慌てた様子で火皿をひっくり返した。
「父さまが、きせるをしていましたから菖は気にいたしません」
「しかし、体にあまりよくないものなので」
 多江が煙管を下げると、かわりの女中がぐつぐつと湯立つ牛鍋を持ってきた。

 菖は、思わず喉を鳴らした。しかし、篤がじっと自分を見ているので普通の顔をするように心がける。
「いただきましょう、菖さん」
 家主の篤が先に箸と茶碗を持ったので、菖もそれに倣い箸と茶碗を持ち牛鍋に箸を入れた。
 生のたまごをといた黄色い汁に、牛をつけて口に入れる。一度食べ始めてしまえば、もう取り返しがつかないほど次から次へと牛鍋をつついた。
「菖さん、急がなくても鍋は逃げません」
 篤に笑われて、菖は顔をあげた。見ると、篤はほとんど食べていないのに、牛鍋の中がなくなっている。
 正座した足がじんじんと痺れているのも忘れるくらい夢中に牛鍋を食べていた菖は、恥ずかしさから目に涙を浮かべた。
「菖は、せんせいのお夕食もたべてしまいましたか?」
「いいえ、そうではありません」
 しかし、現に牛鍋は一人分しか用意されていなかった。仕事場である女学校からの帰り道に偶然菖のしゃがみこむ姿を見つけることができ、家に連れてきたので、お夕食は篤の分だけしか用意されていなかったのだ。
「せんせい……菖は食い意地がはった嫌な女にございましょう」
「ですから、そうではないと言いました」
 菖は、ぼろぼろと涙を流しはじめたので篤は箸と茶碗を置いて「どうして泣くのです?」と眉をしかめてしまう。
「このような美味しい牛鍋は生まれてはじめて食べましたので……」
「ならば、泣かずに笑ましょう」
「笑いたいのですが、悲しいのです。菖には二度とこのように美味しい牛鍋を食べることができぬのですから」
 子どものようにしゃくりをあげて、わあわあと泣き出した教え子を前に篤は席を立ち隣に座った。懐からさっと白い布を取り出し、菖の長いまつげに滴る涙を拭いた。
「また食べられますよ」
「せんせいは、無理なことを実現できるかのように仰りましたが、菖には無理なことは無理なのでございます。おいえには、米も漬け物すらございません。牛など二度と食べられないでしょうに……」

「私のところへ、お嫁にいらっしゃい。そうすれば、毎日でも牛鍋を食べさせてあげましょう」

 菖は泣きじゃくった赤い顔をあげて「およめ?」と呟いた。
「そうです、そうなさい。菖さんはせんせいのお嫁にいらっしゃるのです」
 篤の優しい手が菖の肩に触れた。
 痩せてしまわれた……と篤は少し残念に思いながらも、それでも優しく肩を撫でる。

 菖がまたわあと声をあげて泣き出したので、篤はどうしたらいいのかわからずに困惑した。
「菖さん、どうして泣いてしまうのですか」
「せんせいは、また無理なことを仰りました。菖のおいえには、銭がないのでございます。お嫁にいくためのおきものも道具も揃えることができないのです……」
「そんなもの、私が全部買ってあげます。菖さんは心配なさらずに」

 今度こそ菖が笑ってくれると信じて篤は反対側の肩に腕を回した。
 しかし、菖は両手でその顔を隠したままわあわあと泣き続けた。
「しかし、菖はうさぎさんを食べてしまおうとした女でございます。お優しく頼もしいせんせいのお嫁にはなれません」

 篤は、何をそのようなことなど気にしてはいけませんよ、と教師らしく発言したつもりでいたが、心のうちではその真逆の気持ちばかりが暴れまわっていた。
 この可憐な少女をさっさと自分のものにしてしまいたかったのだ。
 上流階級の娘とあらば、親同士の意見を聞きつつ耐えに耐えながらじっくりと婚儀の機会を伺うしかないのだが、相手が落ちぶれてしまった今、話はとても楽な事のように思えたのだ。
「菖は、だめな女にございます。せんせいから多くのことを教わりましたが、何も守れてはいません」

「いいのですよ。菖さん」

 篤の声色が明らかに変化した。

「私も、うさぎさんを食べてしまう男になりましょう」


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