およしなさいよ、うさぎさん。
 篤がお仕事へむかうために乗った馬車が道から消えてしまうまで、菖は頭を下げて見送りをした。
 町の人たちが行き交う道のほうへと馬はあっという間に篤を連れていってしまう。

「菖様、そのようなお姿では人目につきます」

 松の木に隠れるように立っていたつもりだが、多江に言われて菖は泣きそうな顔で「申し訳ありませぬ」とまた頭を下げた。店先で美味しそうな真っ赤な林檎をじっと見つめていたら、汚い子、卑しい子と罵られたことを思い出し身構えたのだ。
 頭を下げられた多江はぎょっとして、篤様に見られてはきっと酷く叱られてしまう……と菖の手を引いてお家の中へと入るようにとなるべく優しく促した。
 昨日は空腹で余裕もなくお家の外観を気にはしていなかった菖は「はあ」と声をあげて立ち止まる。篤のお家は立派なものだ。瓦の屋根にお庭があり、石が置かれ、小さな畑があり、花までも咲いていたりする。
「菖様、こちらへ」
 庭の真ん中に来るよう言われて、菖はぽかんと開いていた口を閉じて「はい、ただいま」とそこに立つ。
「わたくしはこの重永邸につかえます女中長でございます多江です。こちらは、ハツとユウにございます。あなたは、篤様の心通わせた大切な人にございます。なので、わたくしたちには頭を下げぬよう、ご注意願たい」
 菖はもう一度「すみませぬ……」と心許ないか細い声で謝り、体を小さくしてしまわれた。
 多江は、やれやれ此は手がかかりそうだ、とうんざりと両肩をあげてハツとユウに目配せした。二人ともくすくすと笑いながら「湯屋へのご準備をいたして参ります」と揃って頭を下げた。

 準備ができるまでの間、篤から朝餉の残りを食べてよいと言われたのを思い出し、膳の前に座りなおすことにした。行儀が悪いが菖は残していた朝餉を無視することができない。
 多江がそれに気がつき、釜の米を握ったものを持ってくる。
「多江さま、ありがとうございます」
「いいえ。あなたが痩せすぎていると篤様はえらく心配なさっております。たんとたくわえてくださいませ。それから、私にはさまをお付けにならぬよう」
 菖は、「多江さん、ありがとうございます」と言い直し頭を下げた。

 温かい汁と温かい白米も、久しぶりのことで菖の目にはじんわりと涙が浮かんでいた。お家の人たちは満足にお食事をなされたのでしょうか……と考えると不安で押しつぶされてしまいそうだ。
 父さまはまだ菖がいなくなったと気がつかずにお酒を飲んでいらっしゃるのでしょうか。母さまは今日も見世に座らされてしまうのだろうか。姉さまは一体何処へいかれてしまったのでしょう。少し前までは当たり前のように父さまがいて母さまがいて姉さまが一緒にいて、汁も米もお腹いっぱいに食べさせてもらうことができていたのに……それがたった一夜にして、食べることに大層困るとは思いもしなかった。
 菖は家の人たちと離れてから後悔していたことがたくさんあったのだけれど、お腹がすいて胃がぎゅうぎゅうと鳴る時はいつも苦手だからと小魚の煮付けを残していたことを思い出した。
 嫌でございます、と捨てていた小魚が自分に逆襲にきたのだと思った。網にかかり漁師に釣られ、まだ生きたいのに煮付けにされ、甘いたれなどで味付けされて出てきた魚を菖は「嫌」と一言で捨てていたのだ。
 何と浅はかな行いをしていたのだろう、御先祖さまたちはその様な悪しき菖に罰を与えたのだろうと考えていた。
 此処に、もし小魚たちがいれば頭を下げて懺悔したい。そして命を粗末にした行為を生涯かけて詫び続けたいと窓のない掘っ建て小屋の薄暗い部屋で考えていたのだ。

 長い期間空腹に悩まされていた菖は、多江が用意してくれた握り飯を全て食べてしまい、膳を運ぼうと立ち上がると、膨張した胃のせいか下腹部の痛みがやってきた。
 昨夜、たまらなくなるほど沢山愛してくださった篤さまの感触がまだ体のあちこちに残っている体で、胃の痛みは少しばかり辛く体を前に倒すといくらか和らぐ。
 そして、昨夜の行為と篤の体を思い出し、胸の辺りがぎゅうと縄で締め付けられてしまうようになり余計に苦しくなってきた。
 篤さまは、菖をお嫁にしてくれると約束してくださった。なので、この行為はこれから毎日ずっと続くのだと仰った。
 菖は顔を上げて背筋を正し膳を片付けることにした。
 自分はそれだけ愛されるに相応しい女にならなければいけないと意気込んだのだ。
「あ……いたたた」
 だけど、菖はすぐに背を曲げて痛みに顔を歪めてしまう。膝と膝がくっついて、がくがくと震えた。
「菖さま、左様なことはなさらずにおくつろぎください。今、温めた牛の乳をご用意いたしますので」
 ハツが膳を掴み、ユウに体を支えられて菖は惨めな気持ちで自分の無力さを悲観していた。


 湯屋は町の中にあり、大きな煙突からは白い煙がもくもくと出ている。女中たちと連れ立って、暖簾をくぐった菖は久しぶりの湯につかることができた。
 板張りの洗い場で体と御髪をぐいぐい洗われて、皮膚がひりひりと痛んだが女中たちのしてくれている事なのですから、と我慢をして湯屋をあとにした。
 多江は新しい着物と帯をいくつか誂(あつら)えるからと、菖を呉服屋に連れて行った。
 呉服屋店主は「まあ、新しい女中さんはこれまたお美しい方だ」などと無駄口を叩き多江に睨みつけられていた。

 女中たちは昼は蕎麦屋で温かい汁で煮た蕎麦を食べる。夕暮れまでは畑のお仕事をして篤の帰りを待ち、お夕食の準備をなさるそうだ。菖も何かお手伝いをさせて欲しいと涙ながらに訴えたのだが、布団に寝かされると吸い込まれるように眠りについてしまった。


「んん…………ん………」


 息苦しさをかんじて両のまぶたをゆっくり開くと、そこには篤がいた。縦襟の洋服姿の篤を思わず「せんせい」と呼んでしまい、篤は「せんせいではございません」と意地悪そうに笑みをみせて菖の頬を撫でた。
「体を起こさずに、そのままで。多江から聞きましたよ、体調があまりおよろしくないようですね」
 体を起こそうとした菖の肩を床に押し付けて、篤は自分も布団にごろりと横たわった。
「無理をさせてしまいました。私は自分を抑えることのできない駄目な男にございましょう」
 布団から取り出した真っ白な手が篤の頬に触れた。篤はその手に頬をなすりつけた。
「いいえ……篤さまは素敵でございます。この様に満たされた生活は、菖には久々のことでもう何も考えずに全て篤さまに甘えていたくなります。菖の方がひどく駄目な女にございます」
 篤は、この女はうさぎではなくあやかしなのだろうか……などと考えながら、薄い紅を溶かしたような透明感ある唇に自分の唇を押し付けた。
 

< 5 / 16 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop