涼子さんの恋事情
第13話

 三月に入ったばかりの始業前、涼子のデスクには達也から受け取った辞表届けが無造作に置かれてある。内容は定型文で一身上の都合となっていたが、深く聞こうとも思えない。配置された当初はあれほど提出を願った達也の辞表届けだか、今となっては複雑な想いしか沸かない。
 先月、駐車場で決別を選択して以来、仕事内容以外では全く話していない。涼子自身ほとんど投げやり状態におり、達也とはもう縁が切れたものとしている。反面、心のどこかではいつもトゲが刺さったかのようにチクチクしていた。そして、さっき辞表を受け取ったとき、心のどこかが確実にヒビ割れ、零れ落ちたと認識した。
 事務的に辞表の件を山田へ報告するも、入社当初と違い反対もされない。有給休暇等の関係で三月いっぱいまで籍はあるものの、実際の出勤は今週末で最後となる。今朝のミーティングで達也の退職を皆が驚いていたが、真理子だけは一人悲しそうな顔をしている。
(二人で何を隠しているのかは知らないけど、白川君とのことは私の中ではもう済んだ話だ。興味もない……)
 事務的に報告を済ますと涼子はデスクに戻り仕事を始めた――――


――五日後、誠治の主催で送別会が開かれることになり、涼子も渋々参加することになる。本当は不参加を表明していたが、真理子の真剣な頼みもあり、折れる形での参加となった。会自体は湿っぽくなく普通の飲み会の様相を呈し、真理子も楽しんでいるように見える。主役の達也自身も明るい笑顔を振り撒いており、涼子も少し安心する。
 忘年会同様、途中で抜けようと考えたが、今日で達也を見るのが最後だと思うと、どうしても足が動かず結局二次会まで参加する運びとなる。真理子は最初の段階で帰宅し、二次会は誠治や達也と言ったいわゆる誠治グループがほとんどで涼子は少し浮いている。
 酒が入っているためかいつもより陽気な誠治だが、それが寂しさの裏返しだということは皆が気付いている。達也も普段はあまり飲まない方だが、今日はよく飲んでテンションも高い。
 二次会が終わり三次会だと息巻く誠治をなだめ、なんとか歓迎会は終焉を迎える。飲み会後は達也も電車帰宅となり、自然と涼子と並び駅方面に歩くことになる。しかし、お互いに一言も話すことなく駅の改札に到着する。切符を買う達也を見届けると涼子から口を開く。
「ここでお別れね。なんだかんだ言っても白川君とのこの半年は楽しかったわ」
「そう言って貰えると嬉しいです」
「ご実家にはいつ帰るの?」
「明日の正午、新幹線で」
「そう、もう片付けは済んでたのね」
「はい、もともと半年約束でのサラリーマンだったので、ちょくちょくと整理してました」
「それ、初耳なんだけど。山田常務は知ってたのね?」
「はい」
「息巻いて貴方を辞めさせようとしてたのが滑稽だわ」
 苦笑する涼子に達也も笑顔を見せる。
「ねぇ、最後だから聞かせて貰えないかな? 篠原と貴方が隠してること。どうせもう会うこともないだろうし、聞かないと一生モヤモヤしそうよ」
 涼子の言葉で達也は会議室で見せた複雑な表情になる。
「すいません。どうしても言いたくないです」
「あれだけ望んでいた私との交際を拒んでまで隠すことなの?」
「交際は今でもしたいです。でも、話した上での交際はしたくないんです」
「矛盾、というより、もう意味不明だわ。じゃあ、交際しないなら話してくれるの?」
「いえ、交際の有無に関わらず話したくないんで」
 頑ななまでに口を割らない姿に溜め息をつく。
「じゃあ、何か条件付きでは話せない? 他言しないとか、匿名で話すとか。篠原だけ理由を知ってて、その篠原はちゃんと口をつぐんでる。私も口は堅い方だし約束は守るわ。これでもダメかしら?」
 涼子からの提案を受けて達也は考え込むが、決心したように溜め息をついて切り出す。
「分かりました。部長は他言しないと思うので言います。実は僕、癌を罹ってて今月手術するんです。成功率は……、怖いから聞いてないです」
 達也から放たれる癌という言葉に涼子は慄然とする。
「会社休んで幾つかの病院に行ったりしたんですが、どこの病院も手術を断るくらい難しいそうです。幸い地元の大学病院にその手の名医が来日されると言うことで、少し早めに退職して手術を受けることに……、ぶ、部長!?」
 達也の告白を聞いているさなか、涼子の目から勝手に涙が溢れて出している。
「あっ、ごめんなさい。びっくりして涙出ちゃったみたい。本当、ごめんなさい。大丈夫だから」
 涼子の涙を見て達也も辛そうな顔をしている。
「だから言いたくなかったんだ。部長の涙、見たくなかったから……」
(白川君……)
 達也の優しい想いと言葉に胸が熱くなる。
(白川君は私のことを想って黙っていたんだ。病気と私との想いに葛藤しつつ心配掛けまいとして。今聞いた感じだと凄く重い病状で、手術の内容いかんによってはもう二度と……、言いたい、言わなきゃ。私の方から貴方が好きだと……)
「あ、あの、白川君……」
「はい」
「しゅ、手術の成功を祈ってる」
「ありがとうございます。あっ、そろそろ終電来ますよ」
「そうね……」
「じゃあ、僕行きます。本当に今までお世話になりました!」
 元気よく頭を下げ達也は改札をくぐって行く。想いとともに残された涼子の頬には涙が伝っていた。

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