涼子さんの恋事情
第14話

 達也に何も言えぬまま帰宅した涼子は自失し、着替えもせずリビングのソファーで寝込む。翌朝、麻衣が立てるコーヒーの香りで目が覚める。身体にはいつの間にか毛布がかけられていた。促され洗面を済ませると部屋着に着替え、完璧に配膳された食卓に座る。テキパキと家事をこなす麻衣はさながら母親のようだ。覇気のない涼子を見て麻衣は心配そうに問い掛ける。
「ママ? 何かあったでしょ。酷い顔してる」
 麻衣に言われるまでもなく涼子自身自覚しており苦笑する。
「知ってるわ。酷い顔だし、酷い女よ」
「ママ?」
「ねえ麻衣。白川君のことどう思う?」
(小学生相手に何聞いてるんだか……)
 苦笑しながらも心に思っていたことをそのまま口にする。
「えっ、達也お兄ちゃんのこと? 私は好きだよ。凄く優しいし面白いからね」
(優しいだけじゃやっていけない、なんて冷めたことは言えないか……)
「それに達也お兄ちゃんはきっとママのこと好きだよ」
(なんで麻衣がそのことを?)
「えっ、なんでそう思うの?」
「警察署のときも家に遊びに来たときも、いつもママのこと見てたから」
(全然気がつかなかった)
「でも、ただ見てただけかもしれない」
「そうかな? 達也お兄ちゃんのママを見つめる目、真剣だったよ? メールで好きって言ってた相手も実はママなんじゃないかなって思ってた」
(本当、この子よく大人を観察してるわ。敵わないわね……)
「ねえ、麻衣。実は白川君、今日九州の実家に帰っちゃうの。たぶん、もう東京には帰ってこない」
「えー! なんで!?」
 血相を変え麻衣は席を立ちあがる。
「病気なのよ。しかも凄く重い」
「もう会えないの?」
「分からない。ママ自身どうして良いから分からないのよ……」
「ママは本当にそれでいいの?」
「えっ?」
「ママ気付いてないの? さっき起きたときからずっと泣きそうな顔してる。それって、達也お兄ちゃんと会えなくなるからでしょ?」
 麻衣の言葉に涼子は黙り込む。
「行って。絶対に見送りに行った方がいい! 見送りのない達也お兄ちゃんも可哀相だけど、ママがきっと後悔するよ。ちゃんと言わなきゃダメ! ママ、達也お兄ちゃんのこと好きなんでしょ?」
 麻衣に叱咤され涼子の心は熱くなっていく。
(そうだ、私はまだ白川君に一度も気持ちを伝えていない。白川君はあんなにも私を想ってくれていたのに、一人病気への恐怖と戦っていたのに、私は彼に何一つ与えられていなかった。いつも保身ばかり先立ち強がって素直になれなかった。本当は心が張り裂けそうなくらい寂しくて辛くて大好きなのに……)
 昨夜の笑顔が脳裏をよぎり、涼子は席から勢いよく立ち上がる。
「麻衣、ありがとう。ママ、白川君の見送りに行くわ。麻衣も来るでしょ?」
「私はいいよ。達也お兄ちゃんが待ってるのは多分ママだから。頑張って、ママ」
 麻衣の優しくも可愛い応援を身に受け、涼子は急いで身支度を始めた――――


――一時間後、ダイヤと下り線から推測しホームを駆け上がる。正午発の一番早い下り新幹線発車まで五分を切っている。息を切らせながらホームを見渡すと、見覚えのある青いリュックを見つける。
「白川君!」
 名前を呼びつつ駆け寄ると、達也は驚いた表情で涼子を迎え入れる。
「部長!? なんでここに」
「ま、麻衣がお見送りした方がいいって言っててね。仕方なく……」
「そうですか、麻衣ちゃんには黙って行くことになりますもんね。すいません。で、その麻衣ちゃんは?」
(しまった、何か上手い言い訳を……)
「う、うん、麻衣はちょっと外せない用事があって来られなかったのよ。ごめんなさいね」
「そうですか、残念だな。どうせなら、最後に一目会ってお別れ言いたかった」
 話をしていると新幹線が遠くに見える。
「新幹線来たみたいです。わざわざ見送りに来て頂いて、ありがとうございました。短い間でしたけど、部長の下で働けて『サラリーマンしたぞ!』って心から思えました。本当にありがとうございました!」
 頭を下げる達也を見た瞬間、我慢しきれず昨晩のように涙が溢れて来る。達也との思い出が走馬灯のように駆け巡り、熱い想いが心を支配する。その涙に達也もびっくりしている。
「ぶ、部長!?」
「ご、ごめんなさい。何か分からないけど涙が止まらない……」
 達也はどうしてよいか分からず黙って立ち尽くしている。
(言わないと、白川君がもう行ってしまう……、でも勇気が……)
「も、もう会えないのよね?」
「はい」
「東京にも来ない?」
「たぶん、もう……」
 沈黙が流れる中、新幹線がホームに到着する。
「じゃあ、僕、行きますね」
「ええ、元気で……」
「はい」
 返事を返され背中を向けられた瞬間、再び涙が止めどなく溢れ、視界に映る背中がぼやける。
(言えないよ……、どうしても言えない。貴方を引き止める言葉と、好きってセリフが……)
 乗客が乗り降りする中、両目をギュっと閉じ泣き尽くしていると、急に抱きしめられる感覚を受けて目を開ける。抱きしめている相手はまごうことなく達也だ。
「泣かないで、涼子さん。そんな顔で見送られたら、僕は新幹線になんか乗れないよ」
「白川、君……」
 驚いていると不意に唇に温かい感覚が襲う。それがキスだと理解するのにも少し時間を要してしまう。離れるとあの真っすぐな眼差しで涼子を見つめてくる。
「大好きです。涼子さん。僕と一緒に来て下さい」
 突然の抱擁からキス。そしてプロポーズとしか思えないこのセリフに、涼子の思考は混乱し何も言えない。確かなことは、悲しみの涙が完全に止まっているということのみだ。何も言えず固まっていると、手を捕まれ新幹線の中に連れて行かれる。
(えっ? えっ? 切符持ってないよ私?)
 戸惑い混乱したままの涼子を乗せ新幹線は発車する。呆然と達也を見ていると照れ臭そうに笑顔で口を開く。
「やっちゃいました。すいません」
 その姿に涼子も笑顔になる。黙って見つめ合っていると、正面から達也が再び抱きしめてくる。今度は涼子も抱きしめることで意思表示をする。
「僕、出会った頃からずっと涼子さんのことが好きでした。仕事が出来る姿はもちろん素敵でしたけど、仕事以外で見せる不器用で優しい素の姿が堪らなく。でも、上司だし普段から僕のことダメ出しばかりしてたから、自信なくて。けどさっきの涙を見たら、とてもじゃないけど我慢できなかったです。涼子さん、ずっと僕の傍にいて下さい」
(私なんかのことを出会った頃からずっと想っててくれたなんて嬉しい、でも……)
 これからの現実的なことが冷静に頭をよぎり、抱きしめていた腕を胸の前に持ってきて身体を離す。
「涼子さん?」
「気持ちは嬉しいわ。でも白川君と一緒には行けない。私には責任ある職務上の立場があり、麻衣を守って行く使命がある。白川君はこれから大事な手術もある。私には背負えきれない」
「大丈夫です。僕が二人を守ります。必ず手術から帰ってきます!」
 真剣な眼差しを向けられるも涼子は冷静に切り替えす。
「白川君では私を持て余すわ。経済的、教育的な観点から考えても麻衣を幸せに出来るのは私だけ。白川君には無理よ」
 いつもの冷静かつ排他的な涼子に戻り、達也は少し困った顔をする。
「あの、涼子さん。僕のこと嫌いですか?」
「嫌いなわけないでしょ? 嫌いならここにいない」
「なら、好きですか? まだ涼子さんの口から好きって言葉聞けてないから」
 涼子は赤くなりながら言葉を振り絞る。
「す、好き……」
「誰を?」
(コイツ私を困らせて楽しんでる?)
 不快になりながらも言葉を紡ぐ。
「白川君が好き」
「できれば下の名前でお願いします」
(照れるわ!)
「達也君が好き! もういいでしょ!?」
 真っ赤な顔をして半分ギレ気味で言うと、達也は再び抱きしめてくる。
「やっと言ってくれた。ありがとう、涼子さん。僕も君が大好き」
「わ、私の方こそ、ありがとう……」
「涼子さんの言う通り、経済的・教育的には頼りないと思う。手術だって成功するとは限らない。けど、二人を幸せに出来るのは僕にしかできないことだと思ってる。黙って僕に着いてきてくれないかな?」
 優しくも熱い告白に内心動かされるものの、どうしても踏ん切りが着かない。頭の中では、どうやって上手く断るべきか考えつつも、反対にこのまま身を委ねてしまいたいという想いが葛藤する。
(分からない。自分自身どうして良いのか全く……)
 そこへ品川駅に到着するアナウンスが流れ、涼子はサッと達也から離れる。
「時間をちょうだい。いろいろと突然過ぎて、頭の中が整理しきれない。私のみならず麻衣の人生にも関わる大事な案件だと思うから、引き取り後鋭意検討させて頂きます」
「涼子さん、後半営業モードになってる」
「あっ、ごめんなさい」
「確かに涼子さんの言う通りだ。今回は僕が急ぎ過ぎました。返事はいつでもいいので……、って言いたいんですが、できれば手術までに欲しいかな」
「分かってるわ。ありがとう、白川君」
「あの、僕達、もう恋人ってことでいいよね?」
(改めて確認されると照れるわ)
「はい、その認識で間違いないと……」
「じゃあ、もう白川君じゃなくてこれからはずっと達也って名前で呼んでよ。僕はずっと涼子さんって呼んでるでしょ?」
「分かったわ、達也君」
 品川駅のホームに入り始めると、寂しい気持ちが込み上げてくる。
「涼子さんはここで下りて。このままじゃ新横浜まで行っちゃうからね。また後で連絡するから」
「分かった、待ってる」
 見つめ合うとどちらともなく抱きしめ合い、長い口付けを交わす。到着するとすぐに離れ、涼子は照れながらも笑顔でその場を後にした。

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