読書女子は素直になれない
第18話

 翼からの叱咤激励を受けた翌日、寝起きから覚悟を持って出社するとフロア内が普段よりもざわついており訝しがる。雛の周りはいつも以上に人で溢れ賑わっていた。浮ついた雰囲気に疑問を感じながらデスクに向かうと美優が話し掛ける。
「五十嵐さん、大変なことになったわね」
「え、何かあったの?」
「てっきり知ってるかと思ってた。私が言っていいのかしら?」
「大丈夫、気になるから言って」
「じゃあ言うけど、鷹取君と雛先輩が婚約したって。しかも、雛先輩って会長の孫娘だってさ。二度びっくりよね」
 婚約という言葉を聞き、さっきまで心を武装していた覚悟が脆くも崩れていく感覚が襲う。美優もそれを察したのか残念そうに語る。
「五十嵐さんも私と同じで鷹取君にモーションかけてたみたいだけど、今回ばかりは相手が悪いわ。雛先輩は素でも魅力的な人。加えてお嬢様。仮に鷹取君を奪おうものなら自分だけでなく彼までクビになる。完全に詰んでる状態。私、他の男に鞍替えするわ」
 肩をすくめる美優を見てから再度雛のデスクに視線を向ける。千晶がじっと見つめていることに気がついたのか、雛は笑顔で手を振った。場の雰囲気と幸せそうな笑顔に耐えられるほど強くはなく、千晶はフロアを駆けて出て行く。
(こんなのあんまりだ! やっと自分の気持ちに素直になれたのに! これから二人で歩いていけるって思ったのに! 私バカだ、あの時、差し延ばされた手をちゃんと握ればよかった。時を戻せるならあの時に戻りたい……)
 溢れる涙を堪えきれず俯き通路を曲がると、スーツ姿の男性とぶつかり床に倒れてしまう。恥ずかしさと涙でうなだれ座り込んでいると、左手を優しく握られる。
「大丈夫か、千晶?」
 その声にハッとして顔を上げるとそこには蓮が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「れ、蓮君……」
「どうした? 泣いたりして何かあったのか?」
「……、何もない。蓮君こそ、婚約おめでとう。良かったね」
 目を逸らしながら言う千晶に蓮は溜め息交じりに切り出す。
「婚約の話を聞いてショックで泣いてたのか?」
「そんなんじゃない。自分のバカさ加減に呆れてたら勝手に涙溢れてきただけ」
 自嘲する千晶を蓮は黙って見つめる。握られていた左手を払うと千晶はゆっくり立ち上がる。
「もう大丈夫だから、雛先輩のところに行ってあげて。きっとみんなに祝福されると思うし」
「そうだな、分かった」
 そういうと蓮はフロアの方に歩きだす。千晶は締め付けられるような胸の苦しみを抱きながらその後ろ姿を見守った。

 ボロボロの心理状態の中、なんとか仕事を終え帰宅すると母親の心配もよそに自室へと閉じこもった。ベッドに倒れ込み蓮のことを考えていると自然と涙が溢れる。
(私が望んだこととは言え、二人の仲の良い姿なんてまともに見れない。二人とも嫌いじゃないだけに憎めないし。これからも毎日二人の姿を見るなんてとてもじゃないけど耐えられない。もうダメだ、会社は辞めよう……)
 絶望の内に浸っていると、先日買った古書店の袋が目に入る。
(そう言えば買った本読んでないや。って言うか何買ったのかも覚えてない。読者家失格だな……)
 袋に手を伸ばし開封すると三冊の小説が現れる。一つは恋愛小説、一つはミステリー小説、そして最後の一冊は千晶をドキリとさせる。
「これ、なんで? 私買った記憶がないのに……」
 手にした『山月記』を見つめながら本屋巡りのことを回顧する。最初の二冊は手にした記憶があるが最後の『山月記』だけは全く記憶にない。
「なんでだろう、会計も二冊だけだったし、無意識に万引きとかするわけもないし。う~ん……」
 腕組みをして考えていると、店先で翼から手渡された本の存在を思い出す。
「そうだ! ついでに入れといてって言われて、返し忘れてたんだ。やってしまった。どうしよう、振った手前こっちからまた連絡取るのはだいぶハードル高いわ。それにしても、後藤君が選んだ本も山月記だなんて奇遇すぎる」
 偶然の一致に驚愕しながら千晶は表紙を眺める。本を手に取るとページを捲りたくなるのが読書家の性であり、千晶は淀みなく最初のページに指を掛けた。

『李微は美少年で頭がとてもキレ、多方面における才も突出していた。ただ、その才ゆえか傲慢で優しさや配慮にかける面があり、常に孤立していた。旅に出た李微は宿に泊まっていた時分、夜中に呼ばれたような気がして森へと入って行く。その声のする方へ駆けて飛び、また駆けて気がつくと虎になっていた』
 さっきまで流れていた涙は完全に止まり、流れるように文字を追う。
『数年後、人食い虎の噂のある森へ李微の唯一無二の友だった袁参(えんさん)が現れる。袁参が虎と遭遇し危機を感じたとき虎は草むらに翻り袁参に話し掛けてくる。袁参は虎が李微だと察し、李微も袁参との邂逅を喜ぶ。李微は自分の過去を省みたり得意の詩読み、それを人として生きた証として後世に残して欲しいと頼む』
「でも本当は詩のことじゃなく、まず故郷に残した妻子を想うべきだと悔いるけど、そこまでちゃんと想えるだけ李徴は偉いよ」
 そう呟くと再びページを進める。
『虎でありながら人として意識のあるときは難解な思考にも耐えられ、詩を嗜むこともできる。しかし、一日のうちで、人である時間より虎である時間の方が長くなり、李徴はもともと虎であったのか、人であったのか分からなくなった。その意識や考え自体が怖くもあり、しかし人であった頃の羞恥心や傲慢さ、尊大だった醜い心が虎であり、自分本来の姿であったのだと告白する』
「羞恥心の裏にある自信のなさと、自分の弱さに目を背け続けたことが李微を狂わせ虎にした。いえ、彼の心は人であったときから臆病な虎だったんだ。私も同じだ、表面だけ取り繕って自信がないからあたかも潔く去ったように見せかけて逃げた。そして、ラストシーンの李微と同じように、一人寂しく吠えてるんだ。なんて醜いことなんだろう……」
 本を閉じると途端に空しく、自分が小さな存在に感じて涙が零れる。ベッドに座ったまま涙に暮れていると、一通のメールが携帯電話に届く。惰性的に手を伸ばし内容は確認した瞬間、諦めに近い溜め息がついて出る。そのメールは雛からであり、千晶の恋心に終止符を打つ決定打となった。
『明日の夕方、終業後に私と鷹取君の婚約パーティーを開催するから祝ってほしい』

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