ビターチョコ
どれくらいの間、彼の優しさと心地よい体温に甘えていただろうか。
私の心臓は、早く脈打ちすぎて死ぬのではないかと本気で思った。
男の人の腕の中にいるなんて。

10数年生きてきて初めてのことだった。

男の人なんて、父親しか知らない。
こんなふうに抱き締められたことなんて、私の記憶する限り幼少の頃だ。
しかも、数で言うと片手の指で数えられるくらいしかない。

こんな時、どういうリアクションを取ればいいのか必死に考える。
考えても分からない。
脳内回路がショートしそうだった。

ふいにそれを断ち切るように、教室のドアが開いた。
昨日会ったばかりの女の子、椎菜ちゃんが大きな目を限界まで見開きながら呆然と立ちつくしていた。
綺麗な茶色がかった髪は、耳の下で2つに結ばれている。
慌てて身体を離したけれど、もう遅かった。

私たちが声を掛ける隙も暇なんてあるはずもなかった。
麗眞くんがなにか言おうと口を開いたが、彼女はくるりと踵を返した。
パタパタと上履きの音を響かせながら、廊下を走り去っていく。

こんな時にどうすればいいかなんて、私の脳内に答えがあるはずもない。


「なんか、ごめん」

それしか言えなかった。

昨日の様子から推察するに、2人は付き合っているのだろうか。
そうではないにしても、恋人にほど近い友達なのだろうか。
どちらにしても、私がほぼ本能的に彼に甘えたことにより、2人の関係を壊してしまったことには間違いなかった。

「気にするなって。
いつものことだから。
昔から、そうなんだ。
ふてくされると拗ねてどっか行くんだよ。
そのうち戻ってくるから」

麗眞くんは気にしていない風にそう言った。

「いつものことだから」
「昔からなんだ」

そういう言葉が自然に口から出る関係性。
羨ましいと、素直にそう思った。

朝のHRの時間になっても、椎菜ちゃんは教室に顔を見せなかった。

「体調悪いみたいで、保健室に行ってます」


彼女がよほどお気に入りなのか。
それとも、本当に教師としての感情からなのかは分からない。
ことある事に椎菜ちゃんを心配している担任にはそう言って誤魔化した。
何とか事なきを得た。

HRの後に自己紹介が行われていたが、全部耳を通り過ぎていた。

自分の番が来ても、名前と出身中学校しか言っていない。
今、ここにいない彼女だったら、どうやって自己紹介するだろう。
コツを教えて欲しいくらいだ。

……それにしても彼女は、今どこにいるんだろう。
事故に遭っていたら?
事件に巻き込まれていたら?

高校生とは思えないくらい、胸の豊かな彼女。
異常性癖の人が、春はボウフラのようにわいてくる。
性犯罪に巻き込まれる可能性も、無きにしも非ずだ。
気が気ではなかった。
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